感情労働

 

感情労働

 

経済学原理論(経済原論)は抽象的な思考が必要となるが、学生にとって身近にわかりやすいのが「労働」の領域である。世の中の経済学の中には、労働はとは「非効用」でその供給と引き換えに貨幣を得る行為、とする「理論」もあるが、それでは、貨幣を受け取らない家事労働や、労働自体にやりがいをもつ場合を考察することができない。経済的事象に原理的な規定をあたえる原理論では労働を「人間の目的意識的な活動」とする。詳しい説明は小幡『経済原論』など教科書を読んで欲しい。

 モノの中には商品として売買されるものと、そうではないものがあるのと同様に、労働には商品として売買される賃労働とそうでないものがある。 ここで問題にするのは商品になる賃労働以外に含めた労働の特徴づけである。


  労働では通常、意識が身体を通じて労働手段を操作し、労働対象に働きかける。しかし労働の中には「感情労働」とよばれるものがある。感情労働を原理論の観点から考察した阿部浩之氏の論文によると、感情労働の定義は「労働者が対人サービス労働を遂行するにあたり、顧客に適切な精神状態を呼び起こすことを目的に、表だって観察可能な表情と身体的表現を作るために行われる、顧客に向けられる自身の感情を管理する労力」となる。つまり自分の身体自体が労働手段となり、相手の感情が労働対象となる。工場の単調な生産ラインで自分の感情をじっと押し殺すのは感情労働とは言わない。

 感情労働についてはゼミや授業で取り上げてきた。学生がレポートを書いて、議論もしてきた。学生のレポートではアルバイトの経験から接客労働の際の感情労働がテーマになるが、もっと広範な部分に存在する感情労働についても議論してきた。

 阿部氏の定義に立ち返ると、そこでは「顧客」という言葉があるが、感情労働は商品売買(サービスの形をとる商品も含む)だけではなく、家族や友人との関係でも感情労働がある。労働は貨幣の受け取りの見返りに行う非効用の行為ではなく、人間の目的意識的活動だからだ。そう考えると感情労働は労働をかなり抽象的に把握しなければ理解できないことになる。

 学生のレポートでは「自然な接客で客の心を和ませる」とか、「家庭教師の生徒が合格したら一緒に喜ぶ」という例が挙げられることがある。しかしこれらは目的意識性が欠如しており、労働ではない。直接的欲求と行為が結びついた「非労働」となる。これらが労働であるには、《客を和ませるために、自然な接客であるかのように客に思わせるように計算された目的意識的な行為》が労働になる。生徒に対しても、《教師が本当に生徒と一緒に喜んでいるかのように計算された目的意識的な行為》が労働になる。阿部氏の論文でも説明されているように、感情労働は演技であり、感情労働の演技には表層演技と深層演技がある。マクドナルドのスマイル0円は表層演技であり、上に挙げた、「自然な接客」や生徒と喜ぶ例は深層演技である。

 しかしここでふと思うかもしれないが、「自然な接客」や生徒と一緒に喜ぶ教師を、「それは本心ではなく作為的な感情労働だ」というのは少しひねくれたところがある。ただし、原理論(経済原論)というのは、表面的な事象の裏側を探るものなので、この程度のひねくれ度合いは当然のことだ。

 このように考えると、家族や友人との関係でも、自然発生的な感情に沿った行為と、目的意識性を持った感情労働との区別があることがわかる。ただ、この区別は実はそれほどひねくれたものではなく、「親しき中にも礼儀あり」とか、「相手の感情を思いやって言動に気を付ける」といったことの中によくみられることだ。

 さらに、感情労働を発展させる学生もいて、教師は生徒に勉強させようと様々な感情労働を行うが、逆に生徒も教師との関係を円滑にしようと、生徒から教師にも感情労働を行う、という意見もあった。たしかにそうだ。人間社会には、強弱の差はあれ、双方向的な多数の感情労働が満ち溢れている。

 目的意識的な活動としての労働を考えるために、マルクスの『資本論』の以下の有名な記述を挙げておく。

 「我々が想定するのは人間にのみ属している形態の労働である。蜘蛛(クモ)は、織匠の作業にも似た作業をするし、蜜蜂はその巣の構造によって多くの人間の建築師を赤面させる。しかし、最悪の建築師でさえ最良の蜜蜂よりもすぐれているのは、建築師は実際に蜜房をで作る前に、すでに頭の中でそれを作り上げているからである。労働過程が完了した時には、労働の前に労働者の頭の中にイメージとして存在していた成果が実現する。労働者は、外界(自然)に存在するモノもの形を変化させるだけではなく、外界に存在するものの中に、自分の目的をも現実のものとするのである。その目的は、自分が知っているものであり、法則としてその行動の仕方を決めるものであって、労働者は自分の意志をこの目的に従わせなければならない。そして、この目的に従わせるということは、ただそれだけの孤立した行為ではない。労働で使う身体各所に負荷をかけるだけでなく、労働を行う全期間にわたって、目的に向けた意志で意識を集中させることが必要である。しかも、それは、労働者にとって労働が自分の肉体的・精神的な自由な営みとして楽しむことが少なければ少ないほど、目的に向けた意志はますます強く必要になる」(『資本論』, S.193

 はじめの部分は労働の目的意識性の説明である。最後のあたりの部分では、「自分の肉体的・精神的な自由な営みとして楽しむこと」に満ちていれば非労働の行為になり、「楽しむことが少なければ少ないほど」目的意識性が強く必要になる、と説く。これにはいろいろと解釈が可能だが、感情労働に引き付けて言えば、労働対象となる相手から一歩、身を引いて目的意識を設定すること、と解釈したい。

 長くなったので、このテーマはここで打ち切る。この続きは、現代資本主義論として、新自由主義における感情労働となる。





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