経済学は21世紀になっていかに変化してきたか。
大げさな表題だが、とある企画の打ち合わせの会合で話をしたことをメモのために書き留めておく。
20世紀の半ばでは日本の経済学は半分以上がマルクス経済学だった。それ以外は近代経済学と一括されるミクロ経済学とマクロ経済学だった。しかし、現在ではマルクス経済学は半分のさらに半分とも言えるくらいにもなった。
では、マルクス経済学が減って、ミクロ経済学を中心とする近代経済学が増えたのか、そんなふうに簡単には言えない、という話だった。というのは、問題は経済学全体から演繹的に理論を説く理論体系という方法自体が後景化している、と考えられるからだ。
近代経済学の中でもマクロ経済学はもともと理論的根拠が希薄だったため、1980年代ころには「マクロ経済学のミクロ的基礎付け」が強まり、伝統的なマクロ経済学は作り替えられていった。ではミクロ経済学が全盛になったのかというと、そうでもない。ミクロ経済学の市場の概念では、主体の効用を最大化しようとする個人と、利潤を最大化しようとする生産者が不特定多数の形で市場に集まって均衡価格が生じる。このように、全員が一堂に会する市場の概念は「ワルラス的市場」ともいわれ、従来から、完全競争と完全情報というありえない想定と合わせて、批判されてきた。
たしかにそうした批判は適切であろうが、他方で、理論というものは、面積のない点、幅のない直線のように、強く抽象化されたものである。そしてありえないようにみえる前提から、理論的に演繹的に説く面がある。先の批判に対しても、演繹的な理論の立場をとる理論家たちは、理論で論じることは現実に見えようが見えまいが関係なく、物事の本質をとらえるものだ、と反論してきた。この理論と現実との関係については、ミクロ経済学だけでなく、実はマルクス経済学の原理論でもそうした側面があった。
しかしミクロ経済学の側では、20世紀末からはゲーム理論と計量経済学によって、事情が変化してきた。ゲーム理論、さらにそれに関連する契約理論やオークション理論では、不特定多数の市場ではなく、特定の少数者の間で他者の反応を想定した行動様式を説く。計量経済学は数量的に示されるものが理論として正しいとされる。ここで注意すべきは、これらの特徴は伝統的なミクロ経済学の延長線上にあるとは言えないことだ。
こうした変化は古くはここ20~30年来、とくにここ10年くらいの間に進んだ。同時にミクロ経済学の側でメンタリティの大きな変化を伴った。ミクロ経済学内部での変化をここで内在的に語ることはできないが、ミクロ経済学の中で語られることをいくつか挙げると以下のような記述が見える。(以下、引用では一部改行略) 長くなるが、今後のメモのために残しておく。(あくまで引用なので、文脈を知りたい場合は原文にあたってください)
いくつか引用すると
「たとえば『効用関数という概念が非現実的だから、その後の推論そのものも全部価値がない』といった批判には意味がないことに注意してほしい。経済学的には、仮定が多少現実離れしているように見えても、理論から導かれる予測が現実のデータをうまく説明できるようならば別に問題はないと考えるからだ。大切なのは、理論が出す予測を現実のデータを使って検証することなのである。そして理論が現実をうまく説明できない、つまりデータによる反証が繰り返されるならば、その理論は再考すべきである 」(川口大司『労働経済学』2017年、32頁)
「契約理論が経済学に与えた影響として」「第4に、ゲーム理論の『中間構築物』としての役割である。神取(1994)は、「ゲーム理論」がもたらした経済学の変貌」として以下の3点をあげている。 1.配分の効率性からメカニズムの効率性へ 2.自由放任主義の限界 3.インセンティブ制御問題の論理構造 詳細は神取(1994)を参照していただきたいが、これらの変化は、『いずれも特殊ではあるがそこそこの一般性をもった中間構築物』としての契約理論を介したものと主張できる。学説史的には、ゲーム理論による経済学の革命の多くが「中間構築物」としての契約理論を通じて行われたとしてしても差し支えないかもしれない。』(伊藤秀史「契約理論:ミクロ経済学第3の理論への道程」 経済学史研究
49(2)、2007年、58―59頁。「神取(1994)」とは伊藤元重・岩井克人編『現代の経済理論』「ゲーム理論による静かな革命」)
「ここ20年くらい、ゲーム論的な立場から社会を見る経済学があまりにも強くなりすぎたと思っています。ゲーム論的な世界とは結局、顔の見える世界の話です。しかし、私は経済学の中で一番重要なのは、やはりアダム・スミスの思想だと思っています。それは、お互いに顔の見えない人間同士が築きあげる社会とはどのようなもので、どうすれば良くなるのかについての思想です。スミスの思想はハイエクによって深化させられました。ハイエクは、そのような顔の見えない社会とは、すべての人間に共通な抽象的ルール、特に貨幣や法の媒介によって人間関係が維持されることを強調した。私はハイエクに影響を受けていますが、こういった視点が、ここ20〜30年のゲーム論の発展によって消えてしまったことは残念です。」岩井克人他鼎談「経済学はどこから来て、どこに向かうのか?」『経済セミナー』2015年、15頁)
限られた範囲ではワルラス的な市場も現実性があるだろう。また、大量のデータを処理する計量経済学の対象範囲の拡大は「エビデンス」によって、理論の演繹的な展開を抑制するだろう。
マルクス経済学では
他方で原理論の側からは、段階論と現状分析までさかのぼる形でマルクス経済学の体系を再構成する試みがされている。山口重克の「分析基準としての原理論」がその始まりであろう。
最近の「組織化論」は原理論総体に対して、伝統的なミクロ経済学に対して契約理論やゲーム理論が立つ関係と同じように見える。私の最近の論文「経済学原理論における『市場機構』と『市場組織』」はその関係を想定して書いた。つまり、不特定多数の経済主体が活動し、不確定な流通過程が特徴の市場において、部分的に流通過程の不確定性を制御する資本間の関係である。ただし、そこではミクロ経済学とは異なり、流通資本の負担と純利潤率が焦点になる。
打ち合わせの会合では、原理論をベースにして、新たな段階論や現状分析の方法の可能をいろいろ議論した。マルクス経済学においても演繹的な展開をする原理論が、現状分析にどのように使えるのか、簡単ではないが、その内容は今後、方法論からの再構成を含めて別の形で提起されるだろう。
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