ゼミレポート③「価値の量的表現論」

    

 価値論を考えたいというゼミ生が江原慶「価値の量的表現論」をゼミレポートのテーマに選んだ。テーマとしてはかなり難しいので、何を問題にしているのかがわかるようなレポートであればよい、ということにした。以下はゼミでとくに問題になったことを記しておく。この論文の内容そのものを知りたい場合はこのブログの記事ではなく、論文を読んでください。


論文の読み方

前から順番に書いてあるように見えるが、「行き着く先」への筋道を踏まえて読んだ方がいい。筋道とは、

①質量二分法は誤った方法であり、「リンネル20ヤール=1着の上衣」の両辺を対称的にするものである、この方法では、あらゆる商品から一方的に等価形態(式の右辺)に置かれる貨幣が導出できなくなる。

②宇野はこのときリンネル所有者の上衣に対する欲望を用いて論じた。つまり価値形態論を「交換を求める形態」で押し通すものだ。

③しかし、この論文では、商品所有者の欲望を言わない形を追求している。なぜなら、この論文の筆者が言いたいのは、すぐに交換を求めず「評価を求める形態」だから。このように宇野の方法から転換するための手続きとして、リンネル所有者の欲望を起動力にする、つまり「交換を求める形態」にせずとも、両辺は非対称的になりうるとする。そして、すぐには交換を求めない手元商品の価値についても、「評価を求める形態」を通して価値表現をするために、資産評価の幅が広がる。そうして現代の資本主義に広がる資産価値の評価と変動の影響を論じることができる、という論文の目的に達する。


質量二分法とその問題点

リンネル20ヤール=1着の上衣 といった場合、リンネルに価値があり、上着にも価値があり、その共通性から両者は等値可能である、というのが量から切り離された質。この質に基づいて、「リンネル20ヤールの価値の大きさ」と「1着の上衣の価値の大きさ」が等しい、というのが量。質における同質性がまずあって、それを前提に量的関係を示す、というのが質量二分法。

 質量二分法にすると何が問題かと言えば、相対的価値形態(リンネル)と等価形態(上衣)がともに「価値物」となって両者の非対称性がなくなること。正しくは、そうではなく、リンネルは上衣と一定の量的関係を伴って等値されることで初めて自己を価値として示す。

※紛らわしいが、交換性=質、交換力(価値量)=量という意味での質と量の違い(小幡『原論』2930頁、『これからの経済原論』20頁)が否定されているのではないだろう。


リンネル所有者の欲望を取り除く思考実験

 別の視角から見ると、価値形態論は商品の存在しない世界から、貨幣を論理的に導出するので、貨幣の存在しない世界において、リンネル所有者は自分の商品の価値をどう表現できるのか? 

宇野は商品(リンネル)所有者の(上衣に対する)欲望を持ち出すことで、あらかじめ2つの商品間の同質性を必要とせず、「リンネル20ヤール=1着の上衣」という価値の量的関係を示した。この際、二つの商品間の非対称性を示していた。

ところで、論文でこの次の52頁第2段落「ここで、宇野の『資本論』批判の内容から、思い切って商品所有者の欲望を取り去り…」のところを読み誤る人が多かった。

ここで論文は思考実験をするようだ。もし商品所有者が上衣を欲望の対象としなかったとしても、2つの商品は対称的になるわけではない、と論じている。なぜなら、リンネルの価値の大きさを上衣で表現したら1着の上衣になるようにリンネルの量を調整するので、両者はやはり非対称的である。

論文では何が言いたいのかというと…。宇野は相対的価値形態の商品(リンネル)所有者の欲望を前提にしたが、それでは交換に供せられない商品(残りのリンネル)の価値の大きさは不問になる。しかし、その欲望を外すと、すぐには交換を求めない残りの商品部分の価値表現も可能になる。なお、欲望を外したとしても、上衣の量に合わせてリンネルの量を調整するということで、両者の非対称性は維持される、ということ。つまり、すぐには交換を求めない手元の商品在庫の価値の大きさを表現する価値形態論にしたい、ということ。


 比較表現と等値表現

 「リンネル20ヤール=1着の上衣」と等値表現をする前に、リンネル所有者は、自分が所有するリンネルの量が足りるかどうか考える必要がある。つまりリンネルAヤールの価値の大きさを上衣1着で表現する場合、上衣1着の量が決まっているが、リンネルについてAヤールは19ヤール、あるいは20ヤール、あるいは21ヤールという可能性がある。記号で示すとA={…19, 20, 21…}。自分が所有するリンネルがBヤールなら、BAであれば、等値表現へと進むことが可能になる。このBAが比較表現。Aが複数の数値を取りうるということは、交換に供せられないリンネルが必ず存在することになる。

等値表現において何らかのAの大きさが選ばれると、交換に供せられない部分、つまり【BA】ヤールにも跳ね返って、この部分に対しては評価を求める形態になる。この部分【BA】ヤールの価値量は、上衣【(BA)/A】着となる。この部分は交換を求めていないので上衣はどんな量でもかまわない。

1着の上着に対応するために選びだされるAの大きさが変化すれば、残ったリンネルの価値量、つまり上衣【(BA)/A】着という価値の大きさも変化する。

こうして、簡単な価値形態の段階という最初期において既に、交換に供せられない部分の資産評価が問題になる、ということがこの分が目的とした「行き着く先」だ。なお、小幡『原論』では貨幣形態の後で、資産の評価を求める形態になる(小幡『原論』42頁)。しかしこの論文では、「評価を求める形態」を簡単な価値形態に前倒ししたいようだ。


まとめ

 「評価を求める形態」を簡単な価値形態にまでさかのぼらせるのが特徴。「交換を求める形態」による等値自体が「評価を求める形態」における価値量の評価を変化させる。このことが「はじめに」で提起されていた、資産性の強い商品の価格変化をもたらす。この結論は『これからの経済原論』の価値形態論の方法とも共通する。なお「資産性の強い商品」とは何を言っているのか不明(任意加増の生産物、生産条件の限られる生産物、金融資産?)だが、原理論の流通論の初めの部分という抽象度の高い領域では、具体的に考えること自体が誤り、と怒られそうだ。

 以上の説明は、価値形態論を考えるためにゼミで議論するには有益だったが、論文の解釈として正しいかどうかは完全に無保証です。


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