商品集積体に基づく信用貨幣の説明におけるand説とor説
マルクスや宇野弘蔵では、価値形態論で単一の物品貨幣が導出される。しかし第一次世界大戦以降、金本位制は動揺し、1930年代以降、廃止が続き、1971年のドルショックで完全に廃止された。
貨幣が管理可能になるとすれば、資本主義経済の操作可能性も広がるように思われる。それ以外の市場の操作も含め、資本主義は不純に不純を重ねていくものとして、福祉国家、「脱資本主義」Creeping Socialism など、原理論を不要とする議論が一部の世界でまん延することになった。しかし1980年代の新自由主義では逆に、現在もやはり資本主義であり、むしろ、従来、市場や資本の活動の場から隔離されていた部分も、市場と資本の活動の中に適合する形に変形されつつあるように見える。現代も資本主義かどうか、現在も原理論に意味があるかどうか、その試金石の一つが貨幣の論じ方である。
ここで重要なことの一つが、金貨幣なしの信用貨幣の原理的な可能性である。この点について最近の議論を追う。とはいってもいろいろあるだろうから、とりあえず小幡『経済原論』を出発点にする。
現物ではなく債権としての信用貨幣
小幡『原論』(2009年)の信用貨幣論には二つの特徴がある。一つは、信用貨幣は「現物ではなく債権」。もう一つは(信用貨幣に限らないが)貨幣の価値の安定性を必要とはしていないことである。
信用貨幣は商品価値に基づいており、商品価値に基づく商品貨幣には物品貨幣と信用貨幣がある。48頁に次の図がある。
従来の「信用貨幣は兌換信用貨幣」という考えからは離脱している。しかし、信用貨幣だという理由は「現物ではなく債権」である。そのため価値形態論で単一の物品貨幣が論じられた後で、信用貨幣が説かれる。また、間接交換の手段となった茶では、茶の現物ではなく茶の引換証(引渡債務)が信用貨幣とされる(292頁)。しかし「これでは茶が物品貨幣で、その引換証は兌換貨幣にとどまる」という批判がこの本が出版されたころから出ていた(私の記憶では)。やはり、現物ではなく債権としての信用貨幣、だけでは限界がある。
多数の商品群を背景にした信用貨幣の価値の安定性
もう一つの特徴、貨幣の価値の安定性についてはまず一般的等価物には時間の概念がない。次に貨幣形態では「一般的等価物が時点をまたいで固定されたとき、それを貨幣とよぶ」(41頁)となっている。将来もそれが一般的等価物のままであり続けるのであれば貨幣となる、という説明であるが、その価値の大きさが安定するとは書いていない。その理由は貨幣の価値は不可知なので、安定性をいうことができない、ということかもしれない。貨幣の価値の不可知性は小幡氏の特徴的な議論だが、マルクスや宇野など、これまでの価値形態論でも、貨幣となる商品は、相対的価値形態から排除されており、自身の価値を表現することはできない。
しかし貨幣の価値の安定性については変化する。いつ変わったが知らないが小幡「仮想通貨の貨幣性・非貨幣性」(2018年)の14頁では「こうした推論を通じ到達した貨幣の定義が、貨幣=
一般的等価物+
持続的等価物である。この第二項目が、今回の報告で新たに追加したポイントとなる。」とある。新たに追加された「持続的等価物」とはどういう性質か? この引用の部分の前の13頁から「持続的等価物」という見出しの項があり、「こうして等価物は、すべてに共通であるという一般性に加えて、期間を通じて価値の大きさが安定しているという持続性を求められる」とある。私の誤読かもしれないが、貨幣の条件として貨幣の価値の安定性は『原論』にはなく、2018年の論文で新たに追加されたように見える。ただし貨幣の価値が不可知であることは変わらないので、貨幣の価値の安定性も条件付きである(20頁)
ところで、『原論』以外では、2006年の小幡「貨幣の価値継承性と多態性」(Web公開版で30頁)では、信用貨幣の価値安定性の必要性を論じている。そして兌換がなくても価値が安定できる理由として、信用貨幣が購買できる商品群における商品価格の合成作用を挙げる(この論文を採録した『価値論批判』では98頁)。理由、というよりも例解として、商品券とその引換対象となる商品群、多数商品種に対する選択的な引渡債務とその対象となる商人保有在庫の商品群を挙げる。要するに次の図の形になる。
この場合、個別の商品価格の変動を全体の平均に置き換える一種の保険的な効果が、商品券や引渡債務に価値の安定性をもたらす、とされる。その先は以下の通り「さらに銀行券のような本格的な信用貨幣への発展は、直接的な諸商品の集合から、諸債権を基礎にした債務というというかたちで間接化することで、この複合性をさらに高次化させる」(Web公開版30頁、『価値論批判』98-99)
特定はされるが多数の商品を受け取る債権としての商品券と、市場で売りに出されている商品すべてのうちいずれかを買うことができる信用貨幣には共通点がある。しかし、信用貨幣の基礎にある多種類の商品が合成体になっていることが、信用貨幣の価値の安定をもたらす理由がはっきりしていない。たとえば、引渡債務の対象となる多数の商品がそれぞれ特定の量とともに並べられ、商品券あるいは信用貨幣という形で債権を持つ経済主体がどれかを選んでいくわけだが、価値が大きいものだけが偏って選ばれることになりかねない。(なお、複本位制では債務者が支払う貨幣の種類を選ぶので、商品券型の信用貨幣とは逆である。複本位制(bimetallism)では、額面価値に比べて、市場で売買される現物での価値が小さい金属の貨幣が選んで支払われる。複本位制については以前、詳しく論じたことがある「19 世紀複貨幣制の理論と金銀蛇による実証分析」。なお『資本論』第1巻ではS.111注53)
小幡説では、多数の商品集合体から、いずれからの商品を受け取るというorの関係になっているが、もう一つの方法として複数の商品を組み合わせるandの関係で論じているのが、さくら『原論』である。これは以前の記事で論じたので詳細は繰り返さない。図解すると
ポイントは複数の商品を組み合わせることで全体としての価値の安定させることだ。そうなると「評価を求める形態」で等価形態に置かれやすくなる、多数の所有者から等価形態に置かれることで貨幣となる。難点はこの商品セットは「交換を求める形態」では等価形態に置かれないことだ。
現在の到達点と今後の課題
信用貨幣が、物品貨幣の兌換ではなく、商品価値を基礎にもつ信用貨幣という論点が明確にされた。これは小幡『原論』47、292頁、また「仮想通貨の貨幣性・非貨幣性」17~18頁。ただしこれでは単一の物品貨幣を裏付けとする兌換信用貨幣ではないか、という批判が終わらない。
金貨幣のような単一の物品貨幣に対して原理的に並立しうる信用貨幣を説くには、特定の商品ではなく複数の商品種の価値を裏付けにもつ信用貨幣を論じる必要がある。
その場合、複数の商品種がandで組み合わされるのか、orで集合しどれかが選択されるのか、という違いがある。つまりandとorの二つの方式がある。andタイプは貨幣の価値の安定性を説くことが容易で、価値形態論における「評価を求める形態」に馴染みやすいが、「交換を求める形態」にはそぐわない。
他方、小幡説でのorの関係は価値の安定性に即して論じられるが、安定化させるプロセスは不明である。安定化だけを考えれば、価値の大きい商品だけが選択的に交換を求められ、逆に不安定化しかねない。orの関係は安定化というよりも、「交換を求める形態」で等価形態に置かれ、一般的等価物になりうる、という点が活用できそうだ。この点は以前の記事で「orの関係の商品集合体と信用論を用いて信用貨幣の発生を説く新しい価値形態論」論じた。
最後に、商品集積体を作る主体が等価形態の側に登場することだ。宇野の方法では相対的価値形態の商品には所有者がいて自分の欲求する商品を等価形態に置くが、等価形態に置かれた商品の所有者は登場しない。しかしこの商品セットを用いた価値形態論ではandでもorでも、等価形態に置かれるように商品セットを工夫する商品所有者が登場する。現実の信用貨幣は銀行によって発行され、発行者抜きとは考えられない。原理論でも宇野の前提を変更し、等価形態に置かれる商品の所有者を登場させつつ、ただし貨幣が選ばれるのは相対的価値形態の商品の所有者のたちの行為、という関係は変わらない。
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