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The Logical Emergence of Banking Capital from the Circuit of Industrial Capital: A Modern Unoist Approach

  introduction   To explain commercial capital and banking capital, Marx began by discussing the transformation of commodity capital and money capital into commercial capital and money-dealing capital (Marx 1981: title of Part 4). His method was first to divide the circuit of industrial capital, G-W…P…W’-G’, into production and circulation. The capital in the circulation phase is called “merchant’s capital”. Then the merchant capital is divided into “Commercial capital” and “Money-dealing capital” (Marx 1981: 379). We can denote merchant capital as W’-G’-G-W, commercial capital as W’-G’, and money-dealing capital as G’-G. This method is, in terms of form, well balanced. However, Uno and the Unoists criticized it and argued that, methodologically, the emergence of specialized capital requires an explanation of how it can raise the profit rate by reducing circulation capital and costs. Behaviors for higher profit by individual capitals leads to the emergence of specialized capita...

原理論における「資本」と「資産」

 


マルクス経済学原理論における「資本」

 マルクス経済学は資本主義社会の特徴づけが目標となるので、資本とは何かという定義づけが重要である。原理論では資本とは「自己増殖する価値の運動体」と定義されてきた。

他方、近代経済学(ミクロ経済学)では、資本とは「生産過程に投入される生産された財」「工場や機械など固定的な生産設備」といった規定が与えられることが多いようである。これでは人類史では、かなりの昔から資本主義社会ということになる。というよりも近代経済学(ミクロ経済学)では資本という定義はあったとしても資本主義という定義は基本的には存在しない。大学のシラバスで「資本主義」と検索すれば、マルクス経済学(社会経済学・政治経済学)、経済学史、経済史などでヒットするが、ミクロ経済学系の科目にはほぼ現れない。


活動の主体と財産の二つの意味を持つ「資本」

マルクス経済学では、「産業資本」、「商人資本」などといった使いかたをするが、「資本」というのは「活動の主体か、財産か?」という質問を受けることがある。唯物論の立場であれば、財産が特別な状態に置かれた時に資本となり、その財産の活動の人格化として資本が存在する、と理解がなじむ。そのため資本という言葉に「活動の主体」と「財産」をともに読み込ませることに意義があると感じるのだが、そうした用法に慣れないと分かりづらいこともあるだろう。

では活動の主体を「資本家」とすればいいか、と言えばそうはいかない。そうすると個人資本家が強くイメージされることになる。株式会社など結合資本の場合には、活動の意思決定の主体としての資本家を想定することが難しくなる。株式保有者は間接的にしか資本の活動の意思決定に影響を与えないし、株主から選任されて恒常的な意思決定を行う経営者は、自分が資本を所有してはいないので所有の意味もにおわせる「資本家」という言葉には抵抗がある。そのため、所有と意思決定の主体とを一体した「資本」の語を用いることになる。

宇野弘蔵の経済原論は個人資本家が基本だったが、最近の経済原論では個人資本家と結合資本(株式資本)は同等のものとされる(小幡『経済原論』問題56など)。


さくら『原論』の資本の定義

 ここから本題である。これまでの原理論では、資本とは「自己増殖する価値の運動体」としてきた。たとえば、小幡『経済原論』80頁にある。運動とは、商品→貨幣→商品→貨幣→… という姿態変換のことである。姿態変換をせずに価値が増えてもそれは資本ではない。たとえば、労働者が賃金を貯めて貯蓄をしたり、土地所有者が地代を貯めるたりするのは資本ではない。

ところで、最近の経済原論の教科書、さくら原論研究会の『これからの経済原論』では資本の定義が「価値増殖のために拠出される元手」(50頁)へと変更されている。この定義は特別なものではなく、会計学の資本の定義と同じである。

 正確には『これからの経済原論』を買って読んでもらうことして、簡単に図解すると次のようになる。

 もともと、小幡『原論』でも、資本投下(投資)とは「自分の所有する資産全体の中から、増殖の母胎となる部分を分離し確定する」(80頁)とされていた。その意味では、さくら『原論』の説明は、小幡の説明を貸借対照表で示したものといえる。

 もう少し順を追って貸借対照表でいえば、まず、資本投下の前の空箱の状態を想定する。


 次に資本投下が行われる。これは貨幣でなくても現物など、価値物であればよい(小幡『経済原論』問題55参照)。

 続いてこの価値物は財産の活動の場に入り、商品や貨幣の形を取り、姿態変換を行う。いくら入ったかは財産の出所に記録される。

 右側に負債も含めると次のようになる。

「資本」を貸借対照表の右側とし、実在する商品や貨幣を貸借対照表の左側の資産とし、両者の区別が強調される。区別ができないと銀行業資本が分からなくなるという(57-58)。

たしかに銀行資本の場合は、次のようになる。産業資本や商業資本では、負債がなければ資産=資本となるが、銀行業資本の場合、資産にある債権は、銀行業資本にとっていかなる意味でも資本とイコールにならない。

 次にさくら『原論』の「基本」の定義の問題点と思われる点について。


貸借対照表の理解

そもそも貸借対照表とは、資本の活動の主体である経営者が、資本の所有者である株式保有者に対して、財産の運用を説明するものであり、資本の内部構造の世界を示している。その資本の外側で対立する他の資本や労働者あるいは資本家にとっては、貸借対照表の全体が資本して立ち現れる。資産サイドにあるものが「資本」として直接、現れる。たとえば「賃労働と資本」といった場合には、資産サイドの「資本」が賃金労働者に対立する。


利潤率均等化に関連して

利潤率が均等化するのは粗利潤率のレベルだが、粗利潤率の分母は貸借対照表の資産サイドで、生産に直接関与する物的な資産である。これは生産の技術的確定性からなじみやすい説明だ。しかし、さくら『原論』の方法だと、負債の存在を前提に自己資本を分母に利潤率を計算することになる。そうすると粗利潤率では、レバレッジのかけ方の違いで均等化しなくなる。

また、さくら『原論』では、これまでの経済原論と同様に「流動資本」・「固定資本」(155頁)、「生産資本」・「流通資本」(132頁)という語が出てくるが、これらは資産サイドに存在するものである。用語を統一するなら、「流動資産」・「固定資産」となる。実際、会計学では、「資産」は貸借対照表の左側、「資本」はその右側という原則がしっかりと守られている。


銀行業資本について

銀行業資本は高次に発展した資本である。銀行業資本は、資本の特徴である姿態変換を単独では行わない。銀行業資本から債務を負う資本(産業資本あるいは商業資本)が姿態変化によって得た利潤の一部を得るのが銀行業資本の活動である。そのため資本の定義は産業資本あるいは商業資本が説明できる資本として行われるべきであろう。


おわりに

さくら『原論』は頁数が限られているので、本来はもっと様々な思考がその裏側にあるのだろう。しかし活字になっている限りでは、「資本」という語には、多数の異なる方面からみられることで意味が変わる曖昧さがあり、それが残っているようにみえる。

 





















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