アメリカの債券市場について研究会

 



 前回に引き続いて小林陽介氏が、アメリカの債券市場について報告した。

私は、現状分析でも、原理論でも証券業の専門家ではないので、債券の特徴についてまず考えてみた。

 株式市場は1929年の大恐慌のように、社会的な富の大きな変動をもたらすので注目されるが、しかし株式は変動が大きいことはもともと織り込み済みであるとも言える。他方、債券は大きな変動がないので地味だが、しかし一般的には必ず返済されることを想定しているので返済されないとなると大きな影響を被る(ただし、デフォルト可能性を織り込むジャンクボンドのような債券存在する)。

 2008年からのリーマンショックの大きな原因となった証券化金融商品も、平時にはデフォルトをほぼ想定しない債券の一種だった。

 今回の報告のテーマは、証券化のような特殊な債券ではなく国債・社債といった一般的な債券である。

 その中でもまずは国債が大きなテーマである。以下では、研究会での議論を踏まえて、債券市場を原理論で考えた場合に現れるいくつかの論点を挙げる。

信用貨幣の前提としての国債

 国債は単なる借金ということではなく、安定的な金融資産として必要とされていることに意義がある。通貨当局の金融調整の手段や、一般経済主体の金融ポジションの調整手段として国債は重要である。国債がなくなれば、現在の形での金融調整は不可能になる。ただし、金融調整そのものが不可能になるわけではなく、中銀の貸出金利(公定歩合)など別の調整方法はある。
 原理論の観点からは、最近の貨幣論では、信用貨幣が成立するためには金融市場での、金融資産の頻繁な売買が必要、と論じられることがある。小幡「さまざまな貨幣を理論的にとらえるには」 
 国債を「国の借金」として返せるか返せないか、というところで論じると、かなりつまらない議論になってしまう。そもそも信用貨幣は発行者である銀行の負債である。また銀行は負債としての信用貨幣に見合う資産を持つ。銀行の資産は、銀行からの受信者の負債である。このように信用貨幣は誰かが債務を負うことで初めて成立する貨幣である。国にせよ、資本にせよ、全体として誰かが大量に債務を負っていることが信用貨幣の前提である。この点は物品貨幣とは根本的に異なる。
 この観点から考えれば、国債は、金融市場での活発な取引を前提として、銀行の資産の調整の重要な手段となることで信用貨幣の前提となっていることがわかる。例えば、複数の銀行間の支払の調整(準備の調整)には、中央銀行のような「銀行の銀行」の預金債務の振替で行われるが、中央銀行がなければ複数の銀行間での支払いの不均衡の差額は国債のような安全資産の移動で決済されることもありうる。その場合、国債は同一銘柄が大量に存在することが必要だ。

証券取引所の存在

 小幡『原論』では、債券や株式といった証券の売買は、証券売買に専門化した資本の存在、それを監視する公的機関、法制化による規制が必要であり、売買が 取引所に集中されることで一物一価となる特殊な市場だとされる(小幡『原論』245頁)。(他方、一般の商品は分散的な取引なので価格はばらつく)
 しかし、この証券取引に関する想定には、小林氏のように原理論を踏まえたうえで現状分析をやっている人からは納得いかない、という声を聴くことが多い。社債の多くは流通せず、相対取引が多い、とのことだ。
 また、今回の研究会で議論になったのは、証券取引を電子的に高速で大量に行う業者が現れることで、従来は半ば公的な取引所を介していた取引が、私的資本の内部に取り込まれることである。かつては銀行でも手形交換所のように、特定の複数の銀行業資本が組織した自主的なクラブのような存在があった(Goodhart, The Evolution of Central Banks)。証券取引所も同じように論じることもできる。これを模して原理論でも銀行間組織が論じられることもあった。しかし、最近の事例のように、個別の私的資本の中で大量に取引が完結する事態を考えると、従来の想定に再検討が迫られる。
 初めから、個別の私的資本の中で完結する証券売買を想定したうえで、場合によっては複数間の証券業資本の組織化として取引所が生じうる、と論じることになりそうだ。その場合、小幡『原論』の公的規制による取引所という説は大きくは棄却されるのではないか。
証券業資本は原理論でも最近20年くらいの間にしっかりと議論されているようで、柴崎氏がこの間の理論史を論文にしており、今年3月に公刊されるそうだ。それを読んで続きを考えることにしたい。

証券業資本の自己勘定取引について

 ブローカー・ディーラーによる証券の自己勘定取引(自己勘定保有)の問題。この行為は一般に「投機的」と言われるのを聞くことがあるが、今回の報告者の小林氏の意見では、マーケットメイク、つまり売り注文に対して買いを、買い注文に対して売りを合わせるために証券会社が持っている在庫であり、それ自身は投機的とは言えない、とことだった。
 証券業資本の自己勘定取引を「投機的」とみなす通説では、証券を安く買ってしばらく在庫で保有してその後、高く売ってキャピタルゲインを得る、という想定である。しかし、最近の原理論では証券業資本を商業資本の一亜種とする考え方もある。商業資本は商品を買い取り商品在庫のリスクをとって売買差額から利潤を得る。小林氏の意見はこの商業資本に即した説明である。つまり、証券会社は買い注文を受けると、売り注文がない場合は自分保有する証券を売ることで売買を成立させて手数料を得る、という想定である。

ETF(上場投資信託)について

 ETFは、証券を束ねたバスケットを一つの証券として取引所で売買できるようにするものである。ETFを構成する複数の証券の価格と、ETF全体としての価格は、ETFの「指定参加者」が裁定取引を行って、二つの価格を整合的にする。ここで不整合が生じる問題について、小林氏から報告があった。
 しかしここで思い出したことは、資産のバスケットの想定はさくら原論研究会の『これからの経済原論』の価値形態論の商品バスケットにもある。今回の報告からは脱線するが、原理論を行動論的アプローチで説くのであれば、さくら原論の価値形態論においても、証券εに対応する商品バスケット内にある諸商品を調整する仕組みを、ETF指定参加者のように、商品所有者の個別の利得追求から説く必要があるだろう。

 今回の記事は明確な結論を導くものではないが、研究会自体は上記の点以外にも実りの多いにものだった。


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