感情労働のネオリベラリズム的転回

 


 もともと感情労働が問題になったのは、対人サービス業務において、自身の本来の感情と、必要とされる感情との間のギャップによる精神的負担のためだった。特に労働力商品化という観点からは、商品としてその労働力を買われた労働者は、自分の外面の行為だけでなく、内面の感情まで管理される。とくに深層演技では必要とされる感情の度合いが強く、その精神的負担から燃え尽き(バーンアウト)、あるいは感情の凍り付きと言われる状況も問題になった。労働者が本当の感情から対人サービスをしてほしい、とサービスを受ける側が願い、また労働者自身も本当の感情をこめてサービス業務をしたい、と思えば思うほど、労働者の精神的負担は大きくなる。


原理論における感情労働

 マルクス経済学の原理論では労働を、生物学的エネルギーの支出とか、身体的精神的負担、あるいは投入することによって生産が行われる、と単純にみなすことはない。

 労働とは人間の目的意識な活動である。さらに最近の原理論では労働は、①目的設定、②手段設計、③逐次遂行、という一連のプロセスから成ると論じている。これを「労働の3相」という

 感情労働にそくしていえば労働者が①今相手に対して何をしなければならないのか(目的設定)を判断し、②そのために具体的に何をしなければならないかの見通しを立てて(手段設計)、③身体的な表現を行う。


感情労働の定義

 原理論を基礎にした感情労働論に、阿部浩之‎[2010]「感情労働論:理論とその可能性」『季刊経済理論』47(2))がある。そこでは感情労働を次のように定義している。「労働者が対人サービス労働を遂行するにあたり、顧客に適切な精神状態を呼び起こすことを目的に、表だって観察可能な表情と身体的表現を作るために行われる、する労力」(65頁)

 この定義は目的→手段・目的→手段という構造になっているが、それを手段→目的というように逆向きにすると、

ⓐ顧客に向けられる自身の感情を管理し、

ⓑ表だって観察可能な表情と身体的表現を作る

ⓒ顧客に適切な精神状態を呼び起こす

 という構造になる。このⓐⓑⓒの手段と目的の関係がそろって感情労働、としている。そのため、工場の単調な労働のような場面での、労働者の自身の感情を制御するのはⓑもⓒもないので感情労働ではない。

 「自分自身にやる気を出させるための行為は感情労働か?」と聞かれたことがあるが、普通に考えれば、労働は【意識→身体→労働手段→労働対象】なので、意識から始まる段階で四苦八苦していることなので、やる気を出して行動を起こす先まで含めて労働だろう。自分の身体的表現で自分の精神状態に作用する、ということであれば、自分の表情を鏡で見たり、自分の声を自分で聞いたりすることで自分の精神状態に影響を与え、 自分の中で自己完結する感情労働になりそうだが、これは無理があるような気がする。他人にやる気を出させる労働であれば、他人のやる気という精神状態に影響するということで感情労働そのものである。


新自由主義の時代の感情労働

 感情労働は上記のように、資本主義経済における労働力の商品化が労働者の感情までも管理することで、労働者の精神的負担が問題になるという文脈だった。しかし現在の新自由主義の時代では、感情労働を資本の利潤を増やす活動として積極的に用いるという別の方向の問題意識が現れている。たとえばAIを使った笑顔の習得では、笑顔の練習を販売する会社、新聞記事「AIで「笑顔研修」、派遣社員向けリクルート系」、就職面接の面接官の身体的表現(新聞資料「面接官を「面接」AIが助言」)などがある。

 これらはビデオアプリで表情筋や身体の動き、声の高さ、話す間隔の長さやタイミングなどを記録しAIで分析して相手の精神状態に適切に作用しているかを調べ、フィードバックし、適切な身体的表現を習得しようとするものだ。(なお、AIはなんでも自動化するわけではなく、労働の3相でいえば逐次遂行を自動化するが、そのために目的設定、とくに手段設計の労働が大きくなる)

 上のⓐⓑⓒの定義から見ると、従来の感情労働論は、ⓒのためにはⓑが必要でⓑのためにはⓐが必要だった。このⓐが精神的に負担だった。しかしAIによる練習は、ⓒのために必要なⓑは、ⓐがなくても可能、という方向を示している。これはⓑがⓒに至る過程を自然過程としてとらえ、その法則性(必ずしも因果関係を理解しなくてもよい)を認識して、明示化された技能とすることである。その技能は分業に基づく習熟効果として繰り返し労働者が携わることで個々の労働者に属人的に習得される。従来は人間関係だったⓑ→ⓒを自然過程とみなすことでAIによる処理が可能となる。(繰り返すが、教師ありのAIの訓練では下準備に大量の労働が必要なので、逐次遂行で自動化しても労働が不要になって全自動になるわけではない)


感情労働の定義を再考する

 この現在の状況をもとに、従来の感情労働論を振り返ってみると、まで遡ってみると、ⓑのためにはⓐが必要だという前提がある。もっと強く言えば、ⓐがあればⓑが自動的に現れる、と言っているかのようにもみえる。

 しかし、自分の感情を意識的に労働として喜んだ状態にしたり、怒った状態にしたりしても、その感情が他者にうまく伝って他者の精神状態を自分の思うように導けるかどうかわからない。つまりⓐがあっても、ⓒに至るようなⓑが表現できるかわからない。ⓐがあろうがなかろうが、ⓒに至るようなⓑを鍛錬する必要がある。ここに労働としての目的意識性がある。この鍛錬は分業における習熟効果として身につくだろう。そのようなⓑが完璧にできれば、ⓐがないⓑであってもⓒが可能になる

 もう少し穏当な言い方をすると、従来の感情労働論では、労働者が演技をするⓑには、労働者自身の感情の制御ⓐというサポートが必要であった。しかし現在のAIによる笑顔の練習のようなものは労働者自身の感情ⓐというサポートは必ずしも必要とせず、労働者が自身の身体の制御ⓑを目的意識的に行うことで、他者の精神状態に影響を与えるⓒことが可能になる、つまりⓑだけがあり、下線部ⓐは不要になる、ということだ。

 現代の資本主義における感情労働の変化は、AIのような技術的な変化をもとに、人間の社会的関係を自然過程として認識し、感情に関する暗黙知的を表情筋の動きや体の傾きの角度などの明示知に切り替え、分業による習熟効果でこの明示知を自分に属人的に習得することで労働者自身の感情のサポートを不要とし、感情労働は純粋な目的意識的な行動としての演技になりうる、ということである。ただし、現在のところ、笑顔や面接の例では表層演技にとどまっているようにみえる。しかし深層演技でもⓑの一部分ではⓐからの切り離しは今でも可能だろう。

 ここでは感情労働の実践や対策を論じるわけではなく、自身の行為と感情を深くとらえなおすことで、労働に関する抽象度の高い理解を可能にすることが目的である。


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