「変容論的アプローチの適用」の段階論と現代資本主義論への適用-1:前提
はじめに
宇野弘蔵が確立した、原理論・段階論・現状分析からなる方法が現在、大幅に再検討されている。原理論では、商品所有者の利得追求に基づく演繹な論理展開を重視し、そうして展開される貨幣や労働組織などのいくつかの概念には、単一の形に定まらない「開口部」が存在すると指摘されるようになった。その開口部に外的条件が作用し、その概念はより具体的な形として複数の形に変容する。そうして資本主義の変容を説く「変容論的アプローチ」が提案されている。それに伴い段階論も、個々の開口部の連動から資本主義が変容する、という方法の可能性も示された。
しかし、原理論研究の場では「原理論では複数の可能性があるというところまでしか言えない」、というネガティブな結論に終始しており、開口部の変容と、現実の資本主義経済の変化といかに対応しているのかを論じる研究は少ない。むしろ、原理論研究の場では、「現実の分析を持ち込んで理論に代替させるべきではない」という抑制も強くあり、原理論研究の側からこれ以上の進展はあまり望めそうにない。
そこで本稿では原理論の抑制された方法ではなく、変容論的アプローチで提案されている原理論の諸概念における開口部とそこでの変容について、現実の資本主義経済との対応を検討し、資本主義の歴史的変化を分析する基準として原理論を再構成するための一通りの考察をおこなう。その範囲は先行研究として小幡『経済原論』で示される範囲にとどめる。
方法論の発展の経緯
かつて宇野は19世紀半ばのイギリスで資本主義が純粋化していたとして、その歴史的純粋化傾向を原理論の基礎とした。そして19世紀末からの変化を資本主義の不純化、あるいは爛熟化とみなし、資本主義の自由主義段階から帝国主義段階への変化とすることで、段階論の基礎を確立した。さらに自由主義段階の前に、資本主義の生成期として重商主義段階を置いた。この段階論を踏まえて各時期、各国を分析する現状分析という経済学の方法を確立した。
マルクスが19世紀の自由主義的な資本主義がそのまま拡大すると考え、その後のレーニンが「自由競争から独占へ」という根拠づけで19世紀の資本主義をそのまま帝国主義へとつなげたのに対して、宇野の方法は重要な発展だった。
第1世界大戦以降の資本主義については、宇野は1971年の『経済政策論』改訂版で「資本主義の世界史的発展の段階論的規定を与えられるものとしてではなく、社会主義に対する資本主義として、いいかえれば世界経済論としての現状分析の対象」(267頁)とした。この方向で宇野を引き継ぐ論者は、第1次大戦以降、国家の経済過程の介入で資本主義が根本的に変質した、とみなしてきた。福祉国家論がその典型である、しかし、1980年代以降、市場原理主義などと言われるように、国家による介入の在り方が大きく変化した。単純に国家が後退したわけではなく、従来は非市場的だった介入の手法が変化し、「準市場」のように市場的な手法や規律を取り入れたり、enabling state(支援国家、条件整備国家などといわれる)として、福祉に支えられた経済主体を市場経済で自立化させたりする方向へと変化してきた。こうした傾向を一言で表現すれば新自由主義となる(岩田[2019]「宇野弘蔵の段階論の方法における歴史と現在:典型・中心、自由主義の観点から」)。
従来の宇野の方法では、資本主義は19世紀末以降、不純に不純を重ねるという歴史観になるため、1980年代の新自由主義の変化をうまくとらえられない。また原理論においても、そもそも、資本主義は不純に不純を重ねるという歴史観は、原理論の意味を徐々に後退させるものとなっていた。
原理論から新たな方法の提起
こうした状況に対して原理論そのものの再構成と、段階論や現状分析においても原理論の意義を強く押し出す新しい方法がとくに山口重克以降、発展してきた。これは山口[2006]『類型論の諸問題』にまとまっている。この新しい方法は実際に使われ始めているとは言えないが、その方向性を従来の方法と比較して図式化すると以下のようになる。
新しい方法と従来の方法の対比
|
原理論の射程 |
原理論の役割 |
原理論の根拠 |
論理展開の方法 |
演繹的に説けない箇所への対処 |
従来の方法 |
小原理論主義 |
本質規定としての原理論 |
歴史的純化傾向 |
行動論的アプローチと、行く先論アプローチ |
19世紀イギリスの参照 |
新しい方法 |
大原理論主義 |
理論的純化 |
行動論的アプローチの強化 |
ブラックボックス(開口部) |
第1に原理論の射程としては、従来の方法の原理論は19世紀半ばのイギリスのみ近似的に成立するだけの狭い範囲だけを対象とし、さまざま変異を段階論や現状分析の課題として原理論の外に押し出す「小原理論主義」だったが、新しい方法の原理論は現在に至るまでの資本主義に普遍的に適用可能で、様々な変異をできるだけ原理論に取り込む「大原理論主義」となる。ここでよく挙げられる例は株式資本の存在を原理論で説くことである。
第2に原理論の役割としては、従来の「本質規定としての原理論」の方法では他の経済社会とは異なる資本主義経済社会の特徴を示すことが原理論の課題だった。しかし新しい「分析基準としての原理論」方法では現実に存在するさまざまな事象を分析するための基準を原理論で与えるというものである。例えば利潤率の計算方法に多様な方法がある可能性の指摘である。
第3に原理論の根拠として、従来の方法では19世紀半ばのイギリスにおける現実の純粋化傾向が根拠になっていたが、理論的純化の新しい方向では商品所有者の私的な利得追求活動からの論理的な展開による原理論の構成である。こうすることで、原理論の内容の根拠は理論自体に求められる。
第4に論理展開の方法として、「行動論的アプローチ」自身はもともと宇野の原理論展開の方法の特徴とされていた。つまり、「行く先論アプローチ」では、中央銀行など現実に存在している仕組みを前提として、その仕組みの、社会全体にとっての合理性を説くに対して、そういう仕組みを前提とせず、商品経済的な利得の最大化を求める経済主体の行動にその仕組みが存在する根拠を見出す方法である。新しい方法ではこの行動論的アプローチの徹底化が進められた。しかしそうすると必ずしも中央銀行のような、現実に存在すると思われる仕組みが導出されない場合がある。そして次の特徴になる。
第5に、論理的な展開だけでは1つに定まらない箇所が生じてくる。従来の方法では19世紀半ばのイギリスの現状が参照基準となっていたが、山口はそうした個所をブラックボックスとして伏せて、原理論の展開を無用に複雑にすることなく進め、その後、必要に応じてブラックボックスを考察する、とした。
こうした山口の提起を受けて、小幡道昭がブラックボックスを検討していた内容が小幡[2012]『マルクス経済学方法論批判 :
変容論的アプローチ』にある。ここではブラックボックスが3つのタイプに分けられる。
第1に、外的ブラックボックスである。これは市場経済的な利得追求以外の動機の行動や、信用関係における誠実さや善良さ、自然環境などである。これらは原理論の展開を支えるようなものではない(94-95頁)。
第2に、規定的ブラックボックスである。ここに何を持ち込むかによって原理論そのものの展開が大きく影響される(95頁)。例として、貨幣における物品貨幣と不換信用貨幣や、中央銀行の有無である。
第3に、暫定的ブラックボックスである。これは原理論の展開の中でいったんブラックボックスを暫定的に仮設し、そのもとで利潤追求活動がどう展開されるのを確かめながら、順次そのブラックボックスにいくつかの可能性を設定する、さらにそのための外的条件を考察する。これは実質的には資本主義経済の変容を分析する理論を構築することになる(104頁)。例えば資本移動の制約のために利潤率の均等化が困難になるが、それはひとまず暫定的にブラックボックスに伏せておいて、その後、商業資本や銀行業資本、証券業資本などが現れ、その困難が解消され、ブラックボックスも解除される(103-104頁)
この3つの中でもっとも重要なのは規定的なブラックボックスである。これを小幡は「開口部」とよぶ。複数の形に変容する分岐点nodeである。原理論の演繹的な論理展開では、その分岐の可能性以上のことは言えず、外的な条件と結びついてどういう形になるのかが決まる。
この方法で原理論を基礎に、段階論や現状分析を再検討できる可能性がある。
しかし、原理論研究の場では「原理論では複数の可能性があるというところまでしか言えない」、というネガティブな結論に終始しており、開口部の変容と、現実の資本主義経済の変化といかに対応しているのかを論じる研究は少ない。むしろ、原理論研究の場では、「現実の分析を持ち込んで理論に代替させるべきではない」という抑制も強くある。また様々な可能性があることを示す場合も、長い文章の中に埋もれて、分岐の枠組みが見えないことも多い。そのため、原理論研究の側からこれ以上の進展はあまり望めない。
そこで本稿では小幡『経済原論』からわかる範囲で開口部として変容のポイントになる箇所を検討し、変容論的アプローチの適用の可能性を探る。そこでは複数の可能性について図式的に明確にし、現実の資本主義の歴史的変化とどう対応しているのか、を可能な限り明示する。
小幡『経済原論』における開口部
開口部 |
分岐 |
頁数 |
|
貨幣 |
物品貨幣 |
信用貨幣(中央銀行券) |
47 |
資本 |
個人資本家 |
結合資本 |
305 |
労働組織 |
ファクチュア型 |
機械制大工業型 |
131 |
賃金制度 |
先決め型・時間賃金制 |
後払い型・出来高賃金制 |
139 |
絶対地代 |
本源的自然力の所有者間が市場の外部で結託し絶対地代が発生 |
結託なしで、絶対地代もなし |
204 |
恒久的土地改良 |
本源的自然力の改良を行う主体。資本か土地所有者か。 |
211 |
|
銀行間組織 |
水平的な関係 |
垂直的な関係・中央銀行 |
242-243 |
債券市場 |
債券市場の有無(外的条件として法制度による規制を伴う取引所) |
245, 349 |
|
株式市場 |
株式市場の有無(外的条件として有限責任制などの法的制度や、安定的な利潤率を得る資本の存在など) |
246-247, 350 |
|
景気循環 |
好況から不況、不況から好況への転換(相転移)の形 |
270 |
小幡自身による開口部の追加
開口部の数は初めから決まっているわけではなく、理論的な検討を深める中で増えたり、減ったりすることがあるだろう。実際、小幡『経済原論』以降も小幡自身が指摘する開口部の箇所は増えている。例えば小幡[2012]では「本源的自然力の処理」(66頁)を開口部としている。具体的には「温暖化ガスや汚染物質は、それを生産物とみなせば、再生産の過程に組み入れることができる。それらは、負の生産物として削減にプラスの価格をつける(ゴミの引き取りに支払う)かたちで市場の取引対象にすることもできる。資本主義には、自然環境とのモノのやりとりを制御可能な領域に移そうとする一般的傾向がある」(66頁)これが本当に一般的傾向かどうかわからないが、1980年代以降の新自由主義では顕著である。開口部の観点から言えば、1つのタイプには、社会的再生産過程の外部に出して人間の活動の外側で処理されるものとし、もう1つタイプでは意識的に社会的再生産過程の内部で処理する、という分岐になる。人間の意識によって社会的再生産過程の外部になったり内部になったりするという観点自体はすでに小幡『経済原論』にある(102、143頁)。
他にも小幡[2012]には、「固定資本の規模などに現われる生産技術をめぐる開口部」、「地代論として論じられてきた、生産物でない生産手段としての自然力の所有形態」(167―168頁)という例がある。「生産技術をめぐる開口部」は漠然としているが、「固定資本の規模」については株式市場の開口部に関連する。これは宇野の帝国主義段階論でも固定資本の巨大化として重視されてきたことである。
さらに小幡[2014]『労働市場と景気循環 : 恐慌論批判』では、「社会的生活過程」(37頁)が開口部になっている。「ここには行きつ戻りつしながら、新たな相貌を生みだしてゆく、資本主義の変容原理が潜んでいる」(71頁)として、具体的には生活過程における資本による市場化の圧力と、それに対抗する生活過程からの動きがある。後者の代表は福祉国家になるだろう。つまり生活過程をめぐって福祉国家の成立・発展と、資本による市場化の圧力という形で資本主義の変容が想定されていることがわかる。なお、
生活過程については小幡『経済原論』でも「 生活過程は、地域社会など拡大された場で、多様な社会関係を結ぶことで営まれている。資本主義のもとでも、この生活過程について、特定の標準形を想定することはできない。オープンにしておくほかない領域である」(173頁)と規定している。小幡[2014]は開口部の中身に踏み込んだといえる。
さらに最近では小幡[2021]「労働概念の拡張」が労働の変容を理解するために労働の3相の概念を新たに説いている。労働には「目的設定」「手段設計」「逐次制御」の3つの相があることを指摘し、従来の労働概念がほぼ「逐次制御」に限られていたことを批判し、労働の概念を拡張する。ただしここには開口部という言葉はない。労働には常にこの3つの相が必要なので、分岐構造としての開口部という概念はここでは成立しないだろう。
小幡『経済原論』にあるその他の開口部の可能性
開口部や変容のポイントとは示されていないが、小幡『経済原論』には分岐の可能性となる箇所がいくつかある。
第1に利潤の計算である。小幡『経済原論』84頁問題59、解説は305-306頁には、まだ買われていない商品の在庫を取得原価で考えるのか、内在的価値(相場の価格、あるいは公正価値や時価)で考えるかによって利潤の大きさが異なるという話がある。問題59の解説では「原理的に重要なのは、粗利潤の量が商品の価値実現という問題と結びついており、そこに予想や期待という要因が介在する余地があるという点である」(306頁)とまとめる。つまり、予想や期待の取り込み方の規則に分岐点がある。
第2に本源的自然力である。再生産されない生産要素としての土地や地代ground rent、土地所有者階級の問題は古くから論じられており、マルクスも重要なテーマとしてきた。しかし近年、地代ground rent論を基礎に、土地以外にも「知識」に関する要素がレントrentとして論じられるようになってきた(たとえばRigi
[2014]、Rotta
and Teixeira [2018])。小幡『経済原論』でも本源的自然力として、土地の他に「パテント化された生産技術など、原理的には同様に考えるべき対象は、制度と権力を背景に、無形の知的領域においてもつくりだされている」(202頁)とする。パテント化、つまり知的所有権の対象となるものがどれほどであるのかは資本主義の変容のポイントになり、開口部といえる。制度と権力は外的条件となる。
これに関連して第3に、「無形の知的領域」のように有体物以外のものが商品になる場合である。私的所有の商品化の対象が拡大することについて小幡『経済原論』は、「しかし、知的所有はモノの属性から必然的に生じるわけではない。モノの間の区分は、社会的・人為的につくりだされる面もある。土地には区画が設けられ、著作や発明は法的な権利で囲い込まれ、環境も騒音や排気ガスの量などで等級に分けられる。私的所有は、法制度や契約関係と結びついて、社会的・人為的に拡張される。私的所有に適したモノが典型となり、それに馴染みにくいモノはそれに人為的に似せて処理される。このような処理を擬制という」(24頁)とする。ここは暫定的ブラックボックスと言えるだろう。つまり私的所有に適したモノは有体物であるが、それ以外にも商品として売買されるモノには、知的所有権や本源的自然力、金銭債権や、他の経済主体に特定の行為を要求する非金銭債権などがある。しかし、原理論体系でこの後に展開される生産論では、客観的な自然過程を基礎とする有体物を前提としており、それ以外のモノに生産論での論述が適用できるかどうかを説明しようとすると無用の混乱を招く。そこで、原理論体系のこの個所ではさまざまモノが私的所有と商品化の対象となる可能性を指摘しつつも、その後の論理展開ではしばらく暫定的ブラックボックスとして、さまざまな商品の可能性を伏せて商品を有体物に限定することでこの後の論理展開が容易になる。伏せられたものは後に開かれて扱われる。非金銭債権は労働過程で、本源的自然力は地代論で、金銭債権は銀行信用あるいは株式資本論で、知的所有権は地代論または商業資本論で、それぞれ論じられる。
以上の論点は後に論じる。
開口部の連動
原理論には開口部が複数あるのでそれらの相互の関係が問題になる。小幡[2012]では個々の開口部で外的条件が組み込まれて一定の形を取る場合が「弱い意味での変容論」であり、原理論体系全体にわたり複数の開口部で連動して一定の形を取れば「強い意味での変容論」としている(17頁)。具体的には「金貨幣の想定と銀行間組織の様式との間には一定の関連」があるとしている。つづけて「その貨幣・信用制度の在り方は恐慌の激発性の説明に不可欠」(17頁)としている。労働についても「労働組織や賃金制度に関わる開口部は、労働市場をめぐる開口部と連動する」(61頁)、「たとえば、対人サービスや商業活動などに雇用の重心が移り、労働組織がマニファクチャ型になれば、労働市場の構造転換を招き、景気循環における好況と不況の推移を変容させる」(72頁)としている。
複数の開口部が互いに連関する「強い意味での変容」によってその時代の資本主義の典型的なタイプが決まり、段階論になる。「弱い意味での変容」はその時代の個々の国や地域、あるいは個々の経済主体におけるさまざまな変異を示すだろう。
「変容」「開口部」といった用語の使い方について
小幡『経済原論』や小幡[2012]では「変容」や「多態性」が何を指しているのかが分かりづらい。しかし、小幡[2020]「さまざまな貨幣を理論的にとらえるには」で、貨幣のみだが、用語の意味が明示されているのでまとめておく。
貨幣における変容
抽象度 |
||||
低 |
第3のレイヤー |
金貨幣、兌換銀行券、銀行預金、補助貨幣 |
不換銀行券、銀行預金、補助貨幣 |
「多態化」(具体的な姿) |
第2のレイヤー |
物品貨幣 |
不換信用貨幣 |
「変容」(開口部) |
|
高 |
第1のレイヤー |
(商品→)商品貨幣(→資本) |
「展開」(論理的・演繹的) |
「展開development」は最も抽象度が高い第1のレイヤーにあり原理論における諸概念が商品、貨幣、資本というように演繹的に現れていく論理的な順序である。ここで「商品貨幣」とは商品価値を根拠に持つ貨幣という意味である。物的な商品体がそのまま貨幣になるという意味ではない。この抽象的な概念の商品貨幣は第2のレイヤーとしてより具体的な形に変容morphismして、物的な商品体がそのまま貨幣物品貨幣か、商品価値に対する債権としての不換信用貨幣になる。さらにもっと具体的に第3のレイヤーとして貨幣として使用される場合には、物品貨幣や不換信用貨幣の他にそれらの代理物として、銀行券や銀行預金などの兌換信用貨幣や補助通貨が用いられる。これらは「多態化」polymorphismとなる。
これらの3つのレイヤーとは別に、歴史的に金本位制停止のように「物品貨幣」から「不換信用貨幣」に移行するのが「発展」historical developmentとなる。
これらの用語は必ずこの用語でなければならないわけではないが、混乱を避けるためにこの用語で統一しておく。これらの用語のうち、抽象度の高い概念からもっと抽象度の低い概念に移る際の「変容」と、歴史的な変化としての「発展」の2つが混同しやすいので注意が必要である。
なお、小幡『経済原論』には「外的条件」、あるいは「外部の力」と書いてあるが開口部ではないものある。1つは一般的等価物の統一のために必要な「外部の力」(40頁)で、これは貨幣の発生のために必要である。もう1つが労働力の商品化という「外的条件」である(123頁)。これは社会的再生産が資本主義的に行われるためには必要である。つまりこの2つは原理論の論理展開のために必ず必要なものであり、変容をもたらすものではないので開口部ではない。
開口部や変容のポイントとは関係なく「多態性」の語がつかわれる場合もある。それは小幡『経済原論』では「資本の多態性」(87頁)で、資本の価値増殖の形が「姿態変換内接型」「姿態変換概説型」「流通費用節減型」に分かれるというものだ。これは個人資本家や結合資本という変容のポイントとは関係がない。小幡[2012]では開口部の分岐構造のことを「多態性」とよび(230頁)、個人資本家と結合資本の分岐も「多態性」とよんでいる(235頁)。これらは用語の未整理と思われるが、結局、小幡『経済原論』では、資本について個人資本家と結合資本が開口部としての変容のポイントとなり、増殖の形は変容ではなく多態性である。
次に、原理論体系における開口部を一つ一つ検討する。
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