「変容論的アプローチの適用」の段階論と現代資本主義論への適用-3:貨幣と資本
貨幣
貨幣については開口部の議論が最も発展しているので、その内容の紹介にとどめる。以下の内容は主に小幡[2020]「さまざまな貨幣を理論的にとらえるには」による。
展開
原理論では、多数の商品から価値表現の素材とされる存在が貨幣として導出される。貨幣は何らからの形で商品価値に基づき直接的交換可能性を集中的に持つことになる。なお、貨幣が基づく商品価値の根拠は複数の可能性があり、それは次の変容で示される。
ここでは外的条件が2つ現れる。1つは価値形態論の展開の途中で一般的等価物が1つになるという仕組みである。等価物が1つに絞り込まれる傾向に基づき、何が貨幣として選ばれるかは、法貨規定など外部の力の作用が必要である(小幡『経済原論』40、山口[1985]26-27)。ここは開口部ではなく、そもそも等価物が1つに選ばれて貨幣として成立するために必要ということである。
変容
もう1つの外的条件が開口部になる。価値形態論で論理的に導出される貨幣は抽象的な商品貨幣であり、現実の形をとしては、より抽象度を下げて2つの形が現れる。
多態化 |
金貨幣、兌換信用貨幣、補助貨幣 |
不換信用貨幣、補助貨幣、資産市場 |
変容 |
物品貨幣 |
信用貨幣 |
展開 |
(商品→)商品貨幣(→資本) |
一つが商品の物財の形がそのまま貨幣になる物品貨幣で、もう一つが商品価値に対する債権としての不換信用貨幣である。どちらかになるかは外的条件によって決まり、どちらになるかによって後の原理論体系の展開において異なる影響を与えることがある。影響するのは主に銀行間組織と景気循環の形態である。また、不換信用貨幣は、具体的には発行者としての銀行業資本と、一つへの絞り込みとして中央銀行を擁する垂直的銀行間組織が前提にある。もちろんこれらの前提は原理論体系のずっと後で現れるので不換信用貨幣の仕組みはブラックボックスで伏せられる。そして貨幣の変容の影響もそのときまで伏せられる。
多態化
さらに抽象度を下げ、その貨幣を具体的に用いるための形が多態化する。物品貨幣では金や銀のような本位貨幣の他に、本位貨幣への兌換を約束した銀行券や銀行預金などの兌換信用貨幣、兌換はないが少額に限る補助貨幣などがある。不換信用貨幣の場合には銀行券や銀行預金などの不換信用貨幣の他に補助貨幣や資産市場がある。ここに資産市場があるのは、不換信用貨幣は貨幣の価値の安定性に難点があるため、貨幣を保有する個別経済主体は貨幣と資産との売買を繰り返しながら、自分の保有する貨幣について価値の面での安定性を図るためである。
原理論で現れる貨幣は商品貨幣だが、それ以外に価値の大きさがなく政府の命令のみを根拠に流通できるfiat money(命令貨幣)という考え方もあり得る。しかし商品価値に根拠を持たない貨幣を市場の外側から導入しても実際には流通することはない。不換信用貨幣は銀行の仕組みで与信(債権買取も含む)によって発行されるため、裏付けとなる資産が存在するのに対し、命令貨幣は政府が支出によって発行するもので、裏付け資産が存在しない。不換信用貨幣は裏付け資産を通じて商品価値に基礎を持つ。
開口部の性質
貨幣における開口部での物品貨幣と不換信用貨幣への変容は互いに背反である。そして現実の資本主義の歴史においても金本位制の時代とその後の停止の地代があるので、原理論の変容と段階論の発展がうまく対応する。しかし他の開口部や変容のポイントは必ずしも背反になるとはかぎらない。同時期に併存したり、さらに同じ経済主体でも2つの形を持ったりすることもある。
資本
資本における開口部もよく議論されている。ただ、ここでややこしいのは小幡『経済原論』では、資本そのものの概念における開口部の問題と、資本の価値増殖の運動における多態性の問題の2つがあり、両者は互いに独立していることだ。
展開
「貨幣の資本への転化」として理論の歴史ではいろいろと議論されてきたが、現在の原理論は、貨幣の価値の不可知性のため、経済主体は価値の下落を下げるために転売を繰り返すことによって価値の維持あるいは増加を求めて資本が発生すると説く(小幡『経済原論』79)。ここで貨幣の価値の不可知性とは、貨幣自身の価値の大きさは他の全ての商品の価値の逆数で表現するしかなく、すべての商品の構成比や、価格変動は認識不能だからである。
資本は、投下された価値量を増加させる姿態変換運動として、簡潔には自己増殖する価値の運動体と定義される。
変容
論理展開で抽象的な意味での資本が規定されたうえで、より現実的な具体的な形を取る場合に、1つの経済主体が1つの資本を構成する個人資本家と、複数の経済主体が一つの資本を構成する結合資本へと変容する。資本の活動は初めに経済主体の保有資産の一部を資本として分離して投下し、その投下資本額に対して利潤の大きさが利潤率として計測される。
個人資本家では、意思決定の主体が単一であり、「自己」が明確になる。他方で、結合資本では複数の主体が存在するため保有資産からの投下資本額と残りの資産との分離が明確になり、投下された価値額という意味での「自己」の大きさが明確になる。
多態化 |
さまざまな形の個人経営体 |
株式会社、持分会社など |
変容 |
個人資本家 |
結合資本 |
自己=決定 |
自己=資産 |
|
展開 |
(貨幣→)資本 |
個人資本家でも事業活動を正確に記録すれば、資本額のあいまいさの難点はクリアできそうにも見えるかもしれないが、意思の異なる複数の主体が存在することで、各自の出資額の確定や財務報告の明確さがより強く求められる。複数の異なる主体の関係には、ここではブラックボックスとして伏せられてのちの株式資本で論じられる。それまでの展開においては、変容のどちらであっても問題は生じない。
「資本の多態化」
資本が実際に得る利潤は、原理論でいえば純利潤で、【純利潤=粗利潤-流通費用総額】となる。
財務報告で言えば【 営業利潤=売上総利益-販売費及び一般管理費】にあたる。
純利潤を増やそうとすると、 売買差額としての売上総利益を増やすか、
流通費用総額を減らすかという二通りのパターンがある。前者は転売対象の価値の増大を図る「姿態変換型」で、後者が他の資本から販売を代わりに引き受け売買を束ねて流通費用の節減を図る「流通費用節減型」となる。「姿態変換型」はさらに2つに分かれ、異なる価格体系の複数の市場の間をまたいで売買することで利潤を得る「姿態変換外接型」と同じ市場の中で売買差額の拡大を追求する「姿態変換内接型」がある。
この「資本の多態化」は外的条件とは関係なく、資本主義帰経済であればいつでもどこでも生じ、また個人資本家でも結合資本でもこの多態化は生じる。そのため資本の多態化だが、開口部とは言えない、ということになるのだろう。
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