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The Logical Emergence of Banking Capital from the Circuit of Industrial Capital: A Modern Unoist Approach

  introduction   To explain commercial capital and banking capital, Marx began by discussing the transformation of commodity capital and money capital into commercial capital and money-dealing capital (Marx 1981: title of Part 4). His method was first to divide the circuit of industrial capital, G-W…P…W’-G’, into production and circulation. The capital in the circulation phase is called “merchant’s capital”. Then the merchant capital is divided into “Commercial capital” and “Money-dealing capital” (Marx 1981: 379). We can denote merchant capital as W’-G’-G-W, commercial capital as W’-G’, and money-dealing capital as G’-G. This method is, in terms of form, well balanced. However, Uno and the Unoists criticized it and argued that, methodologically, the emergence of specialized capital requires an explanation of how it can raise the profit rate by reducing circulation capital and costs. Behaviors for higher profit by individual capitals leads to the emergence of specialized capita...

貨幣供給と貨幣生成論における内生と外生の二重構造について

 

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2000年代の不況対策としてマネタリスト的な外生的貨幣供給説に基づく量的緩和政策はそれ自体の成果は達成できず、2010年代には利子率誘導という点で伝統的な金融政策の枠組みに戻り、誘導すべき利子率の分野がインターバンクの短期利子率から、証券市場の長期利子率に拡大したといえる。同時に、各国の中央銀行ではマネタリスト的な外生的貨幣供給説を否定する、内生的貨幣供給説的な論考がいくつか公刊された。

とはいえ、内生的貨幣供給説にはいろいろのバリエーションがあり、内生的貨幣供給説の再興の一端を担ったMMT(現代貨幣理論)には外生的な面があると、内生的貨幣供給説の一部の論者が批判している。

貨幣について内生と外生という見方には、マルクス経済学原理論では別の区別がある。つまり原理的な貨幣生成論の観点から、商品から貨幣が生じるのが内生、商品経済の外から貨幣が規定されて商品経済に投入されるのが外生である。本稿ではA節では、供給と生成論の二つの軸で内生と外生について体系的に説明する。

内生的貨幣供給説の一部が生成論において外生論になる主な契機は、中央銀行による貨幣創出である。そこでB節では中央銀行も、市中銀と同様に銀行業資本の枠組みの中で行動することと、それゆえ中央銀行の発行する貨幣も、商品貨幣としての信用貨幣であることを説明する。

商品貨幣といえば、金のような物財そのものが貨幣となるとえられてきた。そして信用貨幣は物品貨幣への兌換が条件だとされてきた。しかし近年の原理論の価値形態論では物品貨幣を得ることなく、商品価値が債権として自立化する信用貨幣を説くようになってきた。最後にC節で、この商品貨幣として信用貨幣を説く最近の議論を概観する。


A.貨幣生成論における内生・外生と、貨幣量調整における内生・外生

A.1 内生的貨幣供給説の再興

2000年代以降、金融危機の後の長期不況への対処として、各国中銀では量的緩和政策が続けられた。量的緩和政策は、貨幣数量説的なマネタリスト的な外生的貨幣供給説に基づくものだった。しかし、銀行の実務家はもともと内生的貨幣供給説が中心であり、伝統的には金融政策は貨幣量ではなく、主に短期金利の操作に基づいていた。

量的緩和に際して長期証券を買うことで長期金利が下がることはあっても、超過準備が増えることには何の効果もない。貨幣乗数が下がるだけである。結局のところ、マネタリスト的な見解とは異なり、実際の金融政策は、従来の金利操作を長期金利に拡張するという方向になった。日本でも2016年に、量的緩和よりも長期金利の引き下げを目指すイールドカーブコントロールに比重を移した。

図1 日銀当座預金の推移

日本銀行時系列統計データ「準備預金額 MD07」
こうした事態の推移の中で、2014年ころから各国中銀では内生的貨幣供給論に基づく論説が目立つようになる。
このあたりの事情について斉藤[2023] は「このような状況において、各中央銀行は『貨幣乗数』的事態が発生しないことについて説明する必要を感じるようになったのではないか」(18頁)と論評する。
外生的貨幣供給説は、銀行はすでに存在する貨幣を預金として集めそれを貸し出す、という考えであり、これは現代の教科書的な理解といわれる。しかし長い歴史の中では、外生的貨幣供給説が主流になったのは1950年代のガーリー・ショウの「金融仲介理論」(「新しい見解」)以降のことだとも言われる。それ以前は、銀行が与信で貨幣を創出するという内生的貨幣供給説の方が主流であり(Werner[2014]p.2、Jakab and Kumhof [2015]pp.6-7)、銀行実務家の中ではそれ以降も現在に至るまで主流である。最近になって、内生的貨幣供給説はMMT(現代貨幣理論)の一時的な注目も相まって、上述のように内生的貨幣供給説は一般的にも再興しつつあるといえる。
しかし、内生的貨幣供給説といってもその中には、異なる見解が含まれている。この点について金井[2023ab]によるMMT批判から検討する。

A.2 内生的貨幣供給説における外生説

A.2.1 金井[2023ab]でのMMTの外生説的な性質への批判

金井は内生的貨幣供給説の立場からMMTを次のように批判する。「自国通貨建てならば国債の償還は容易にできるという認識には、政府あるいは中央銀行は経済の外部から恣意的に貨幣を投入できるという発想が混入しているように思われる。つまり、MMTは、基本的に内生説をとっている筈なのに、その論理が国債発行に関しては貫徹していない」(金井[2023b]、金井[2023a]では36、5645頁)
「内生説が説くように、銀行は貸出に際してあらかじめ預金を集めておく必要はなく、預金は信用供与によって創出されるのだが、それは銀行が貸出を無限に継続できるという意味ではない。貸出とは、それによって得る債権に対応して債務を創出するのであるから、銀行とはいえ返済が期待できない不健全な資金需要には応じられないのである。貨幣の内生性の根源にあるこの信用先行(債権・債務関係生成)を忘れて、信用創造による預金創出のみを主張するのは表面的な内生説である。MMTが一見内生的な主張をしつつも外生的発想を完全に払拭できないのは、真の内生説に至っていないからではないだろうか」(金井[2023b]181頁。下線は引用者による。金井[2023a]では45-46頁)
 MMTが政府と中銀を「統合政府」として想定し、その政府がいくらでも貨幣量を増やせるという主張は、たしかに外生的な貨幣供給説になる。しかし、「統合政府」ではなく、政府が必要とする貨幣は、政府の需要に応じて中銀の与信によって発行される、と考えれば内生的な貨幣供給説のようになる。しかしそれでも、金井の主張では、外生的貨幣供給説となろう。というのは、貨幣量の増減だけでは形式的な内生的貨幣供給説であって、貨幣の発行の基礎にある健全な与信という「信用先行」こそが内生的貨幣供給説の実質的な基礎になるべきだからである。
この点は斉藤[2023]も次のように同様の主張をしている。「なお、内生的貨幣供給説というのは、民間非銀行部門の資金需要に応じて銀行が貸出を預金設定で行うことにより貨幣が創造(預金通貨が供給)されるという理論(と同時に実情)であるが、民間非銀行部(門―引用者追記)の資金需要は無限大でなく、それはすべて優良なものではない。銀行は、資金需要を審査し優良なプロジェクトにたいしてのみ融資する(情実融資などは例外的な事態)わけであり、内生的に貨幣供給がなされるのであれば、銀行は無限に融資を拡大しハイパーインフレーションが生じてしまう等の内生説に対する非難は的外れである」(斉藤[2023]16頁。)下線は引用者による)
金井と斉藤の説では、民間、つまり市場経済に内在的な需要に応じた貨幣発行が真の意味の内生的貨幣供給説となる。

A.2.2 内生における2つの意味

 この金井や斉藤の主張は古くから銀行原理として知られてきたものと共通性がある。銀行原理は一般的には「真正手形原理」「需要に応じた発行」「還流の法則」からなる(『ブリタニカ国際大百科事典』など)
 この3つの関係は、まず質的に、真正手形原理によって、与信債権の健全性を確保し、次に需要に応じて弾力的に貨幣は増え、不要になれば還流の法則で減少する。
 銀行原理は真正手形原理に基づくが、金井と斉藤の説ではそうではない。つまり、実物プロジェクトでもいいし、金融プロジェクトでもよい。次の図で説明する。

図2 預金通貨の構造

経済主体1(債務者)           銀行           経済主体2(預金保有者)

資産      負債              資産         負債               資産      

銀行への債務

 

債権

預金債務

 

預金通貨

純資産 


㋐の内容についてMMTは空っぽである。政府は貨幣発行で物財を買ったらそれは消費されて消滅する。金井・斉藤説では、市場経済で発生する債務者の債務履行が確実であれば、債務者の資産内容㋐を問わない。つまり商品であってもいいが、金銭債権であってもかまわない。銀行原理における真正手形原理は㋐に商品がある。

A.2.3 マルクス経済学原理論の用法
 マルクス経済学原理論では貨幣の内生と外生を、内生的貨幣供給説の論者とは別の意味で使ってきた。たとえば山口重克は、貨幣の本質論では古来より金属学説と名目学説の対立があったことと、貨幣の生成論には、貨幣が商品世界の内部から発生したとする内生論と、外部から導入されたとする外生論がある、価値形態論による商品貨幣説は本質論ではなく生成論、としている(山口[2000]240)。
小幡[2013]では、新たな表券貨幣説(Chartalism)としてインガム(ポストケインジアン)への批判として「この立場における信用貨幣は、商品価値から切断された、いわば外生的な貨幣論の系譜に属するのであり、商品価値から貨幣が発生するという、その意味では徹底的に内生説的な立場を強調する本書の立場と根本的に異なる」(小幡[2013]106)と論じている。
山口や小幡の叙述は表券貨幣説に対して、貨幣生成論としての商品貨幣論の立場から批判する文脈である。

A.3 貨幣における内生と外生の異なる意味:まとめ

 このように、金井によるMMT批判から内生的貨幣供給説にも二つの種類があることがわかる。一つには政府のような非市場的な存在が一方的に貨幣を供給する場合と、もう一つには市場経済の活動から生じる与信による貨幣供給である。他方、マルクス経済学原理論では、商品あるいは商品所有者の相互作用から商品価値に基礎を持つ貨幣が生成される場合が内生、そうした基礎がなく、外部から非市場経済的な機構を通じて貨幣が投入されるのが外生として区別してきた。

A.4 諸説の体系

前項の関係は以下のように図式化できる。

表1 貨幣の諸学説

 

貨幣供給量調整

 

 

外生的

内生的

貨幣の

生成論

外生説

①外生的貨幣供給説

③内生的貨幣供給説

内生説

②金属主義

④商品貨幣説


横軸の貨幣供給量調整は、経済主体の需要に基づいて発行され、不要になれば還流するというのが内生的であり、経済主体の外部から貨幣が恣意的に投入可能だと考えるのが外生的である。
縦軸の貨幣の生成論とは論理的な貨幣生成である。貨幣が商品経済(市場経済)の内部から生じるのが内生説で、そうではなく市場経済の外部から政治権力で貨幣の流通が強制されるのが外生説である。以下、表1の4つを順に説明する。

A.4.1 ①外生的貨幣供給説

外生的貨幣供給説は、個別経済主体の市場経済的な行動とは別に、つまり市場に対しては外生的に、政府や中央銀行が裁量的に貨幣を投入することが可能で、貨幣量も変動させること可能だと考える。貨幣数量説のように貨幣量の増減が原因となって物価の変動が起きたり、さらに生産量が増減したりすると考える場合が多い。
貨幣生成論としては、貨幣が流通できる根拠は強制通用力などの政府の命令によるとする。
信用(金融)は既存の貨幣を貸借する(金融仲介)、という意味で、「信用の貨幣理論Money Theory of Credit」ともいわれる。あらかじめ既存の貨幣があって、その貸借を繰り返す「信用創造」の説明は外生的貨幣供給説である。

A.4.2 ②金属主義:metallism

金本位制を厳格に考えて金の実物こそが貨幣だと考える立場は②となる。つまり貨幣の生成論としては、商品の一つである金が貨幣となる点で市場経済にとって内生的だが、その量は採掘された金の量に規定され、経済状態から必要とされる貨幣量とは関係ないという意味で貨幣供給としては外生的である。
金属主義であっても貨幣供給量調節が内生的に近くなる場合もある。たとえば一つには、金の支払約束が貨幣として流通しそれが需要に応じて弾力的に発行される場合である。しかし金属貨幣の存在量から完全に弾力的に支払約束としての信用貨幣が発行されれば金本位制とは言えなくなる。もう一つは蓄蔵貨幣による貨幣の流通量の調整である(Lapavitsas[2017]70,110)。これが完全に内生的になるには、金属貨幣が市場に貨幣として完全には放出できないほど大量に蓄蔵されることが必要となり、想定しがたい。非貨幣的用途で大量に存在する場合には可能になるかもしれないが、貨幣取引は通常、非常に速いので、非貨幣的用途からの転用は現実的ではないだろう。

A.4.3 ③内生的貨幣供給説

銀行が与信によって自らの負債として信用貨幣を新たに発行する、と考える立場である。このように貨幣が発行される方法を信用創造という。貨幣供給量について、非銀行の経済主体が求める与信需要や貨幣需要に応じて銀行は貨幣を発行するので、経済過程の内側(一般の経済主体)の状況から貨幣量が調整されるという意味で内生的になる。銀行が与信することで貨幣が生じる、という意味で、「貨幣の信用理論Credit Theory of Money」ともいわれる。銀行の実務家はこの考えが多い。外生的貨幣供給説や貨幣数量説には否定的である。
貨幣の生成論としては、中央銀行または政府が発行する貨幣が流通できるのは、政府の命令による強制通用力であるという点で外生説である場合が多い。つまり、市中銀行が与信によって発行する信用貨幣は、生成論としては外生説に基づく法貨との交換を義務付けられることで、流通可能になる。ただし、貨幣流通全体にとっては、この法貨の流通量は微々たるもので、ほとんどの貨幣は需要に応じて発行される市中銀行の預金通貨、という認識はほぼ共通している。また、市中銀行が必要とする中銀準備預金も、必要に応じて中銀が供給するため、与信量の制約にはならない。この関係は「準備は後から求められる」ともいわれる(吉田[2008]15頁)。
このように内生的貨幣供給説は貨幣生成論としては外生説だが、外生的な貨幣の存在が後景化するため、実際の貨幣や金銭債権の取引の面では④の商品貨幣説との違いが隠れることも多い。しかし、市中銀行の預金通貨はなぜ流通するのか、と問いを立てると、上述のように、法貨と交換できるから、となり、法貨の流通根拠は政府による強制通用力の付与となる。ここで④と見解が分かれる。
ただし内生的貨幣供給説の論者の中でも法貨の位置づけは強弱が異なる。吉田暁はこの中では商品貨幣説に近く、強制通力のある法貨であっても貨幣還流が適切で信認がなければ流通しない、とする(吉田[2002]78)。建部正義では金兌換停止後の法貨の強制通力を強調する。その他の論者は、行政や司法への支払いといった市場経済外部での法貨支払いの強制を強調する場合が多い。
銀行の実務家の標準的な理解としては、たとえばBorioらは、ヴィクセルの純粋信用経済の概念が現代には通用するとして次のように説明する。市中銀行はcredit-backed depositsとして内部貨幣を発行する。創出された預金に必要な準備は、外部貨幣として中央銀行が供給するが、この外部貨幣は量としては、中銀は操作できず、短期利子率で部分な操作ができるだけである(Borio and Disyatat [2011]30)となる。

A.4.4 ④原理論(経済原論)における内生説

古いマルクス経済学者の多くはもともと②の金属主義の立場で、金兌換が停止されれば銀行券は国家貨幣(命令貨幣、政府紙幣ともいう)になるといってきた。ただし、1950年代後半からの銀行券論争では岡橋保のように、与信によって発行される限り、銀行券は国家貨幣ではなく、信用貨幣だ、と強調する人たちもいた(Iwata[2021])。
現在の原理論では、商品価値に基礎を置く貨幣は商品貨幣であり、商品貨幣には、商品の現物が貨幣の素材となる物品貨幣と、商品の価値が債権として自立化した信用貨幣がある。信用貨幣は銀行の仕組みで発行され、その価値の根拠は図1の㋐にある商品価値である。

A.4.4 内生的貨幣供給説と、原理論の内生的生成説と論争点

 現代の原理論では、銀行の信用貨幣の流通の根拠は、銀行の資産の健全性にある。しかし、内生的貨幣供給説の論者からみると、裏付け資産の確実性というのは、それが確実であるかどうかの確証のない「ぼんやりしたもの」に見えるらしい。そして、支払請求のない中央銀行券の法貨としての性質こそが貨幣流通の最深の根拠だ、という。
 しかし現代の原理論の商品貨幣説も、法律による強制通用力のある法貨規定の必要を否定しているわけではない。ただ、法貨規定は不換銀行券のみに必要なのではなく、そもそも物品貨幣のレベルで法貨規定は必要だ。現代の原理論では価値形態論による一般的等価物の導出で論じられている。商品所有者間の行為だけで 一般的等価物が一つに絞り込まれる作用があるが、それで一つに決まるわけではなく、何らかの外部の力が必要になる(小幡[2009]40、47頁など)というのが一般的な理解である。
物品貨幣でも、歴史的に金と銀がともに貨幣として使われていたが、金を貨幣にするか、銀にするか、あるいは両者ともに貨幣にして両者の交換比率を公的に定めるか、などは法律による強制通用力を持たせる法貨規定が必要だった。不換信用貨幣でも、健全な債権を根拠に信用貨幣として自分の債務を流通させる銀行はたくさんある場合でも、最終的な決済を確定させる必要があるので、階層的な銀行システムの最上位の銀行について「この銀行の債務は最終的な支払いであって、それ以上の支払い請求ができない」ことを外部の力が決めることになる。
また、法貨規定は政治権力が勝手に付与できるわけではなく、現に商習慣として多くの経済主体に貨幣として信認されていることが前提である。強制通用力はあらかじめ存在する金銭債務の弁済が法貨の支払いでできるということである。しかし、法貨が信認できない、あるいは取引には不便であれば、あらかじめ法貨以外のモノを貨幣として契約することは禁止できない。市場経済において法貨を用いることを強制できるわけではないのである。
ところで原理論の信用貨幣の説明では銀行が一つであるかのようにして論じることが多い。しかし実際には、③(内生的貨幣供給説)と④(原理論の信用貨幣論)の対立は、中央銀行の創出する信用貨幣をめぐって生じる。次項では、法貨である銀行券も、中銀の当座預金も、銀行業資本の仕組みで発行されることを確認するために、中央銀行を銀行業資本として論じる。

B.銀行業資本としての中央銀行

B.1 与信をするために自分の債務を流通させるのが銀行の業務

 銀行は、とくに1980年代を画期とする新自由主義の規制緩和の中で、兼業規制が緩和され、さまざまな業務を取り込むようになった。とはいえ、銀行業資本の特徴は、原理的に、また、実際の面においても多くは、与信業務の貸出利子による利潤の獲得である。しかし銀行の与信業務の特徴は与信に際して自分の債務を流通させることである。ここが非銀行経済主体による貨幣貸付や金融仲介とは異なる。
産業資本が自分の生産物の品質を確かなものにして自分の商品の流通を促進するのと同じように、銀行業資本は貨幣となる自分の債務の品質を維持し、通貨価値を安定させ、自分の債務の流通を維持する。債務の流通の維持とは、自行の債務の中での貨幣取引(つまり自行銀行券の流通や自行内での預金の口座振替)、他行への支払いがあっても自行への支払いで補填されることである。自分の創出した信用貨幣の健全性とは銀行の資産サイドでは裏付け資産の健全性であり、さらに銀行の負債サイドでは預金の振替など貨幣取引が円滑に行われることである。
 銀行業資本の利潤率は次の形になる(小幡[2009]238)。
銀行業資本の純利潤率
 部門間をまたいだ競争では、銀行業資本の利潤率と産業資本の一般的利潤率との均等化が、銀行業資本の行動の基準となる。産業資本の一般的利潤率が与えられていれば利子率の水準が決まる(小幡[2009]238-239頁)。ただし正確に言えば、この式が示すのは利子率ではなく与信利子率と預金利子率の差、スプレッドである。スプレッドしか分からないと開き直れば⑴の式でよい。しかし銀行は与信のためには自己の債務を維持する必要があるので預金利子率は省略できない。中央銀行の預金利子率は通常、ほとんどゼロが常態だった(河村[2017]30)が、量的緩和政策で当座預金を膨大に増やすためには、プラスの付利が必要になった。

B.2 中央銀行の利潤 

 中央銀行の業務の一つは、資産サイドでは一つには再割引といわれるように、与信業務する市中の銀行などの金融機関に対して与信することである。これは非銀行経済主体に最初に与信した銀行がしっかりと与信先を審査しており、その上さらに中央銀行がその銀行に対してしっかり審査をするので、中央銀行の資産はさらに健全となる。もう一つは国債や外貨準備、金のような安全資産である。
図3 日本の「お金」の量と日銀の資産勘定(2003年4月―2023年6月)
現在は多くの先進資本主義国の中央銀行の資産は国債が多くなっているが、国債が中心にならなければならないわけではない。


中央銀行は、保有する資産からの利子率が低くても、その健全性ゆえに預金利子率を低くしたまま自分の債務の流通を維持できる。
 また、金融危機に際の最後の貸し手でも利潤を得る。最後の貸し手の理解はいろいろあるかもしれないが、基本的には、流動性危機が収まれば健全になるはずの銀行に、(少なくとも平時のインターバンク市場よりも高い)罰則的な高利率で与信をする。危機が収まれば与信が元利払いされて高い利潤が得られる。この最後の貸し手の行為が個別資本として利潤を追求する行動かどうかは議論があるが、ここでは、最後の貸し手の機能が一国の資本主義経済の救済のためであったとしても、中央銀行は、利潤を得るために行動する銀行業資本という枠組みの中で行動することを示せば十分である。さらに中央銀行の銀行業資本としての性質について2点補足する。
第1に、利潤率の最大化には利潤率計算上の期間の長短の問題がある。この長さは一意には決まらない(岩田[2019])。利潤率計算上の期間として景気循環の周期を超える長さを採用すれば、平時には低い利潤であっても、危機に際して高い利潤を得る。
第2に、市中銀行も、例外的にせよ、「追い貸し」やハイリスクハイリターンの与信はあるので、中銀による最後の貸し手機能も、銀行業資本の範囲に含めることができる。銀行が貸倒損失(式⑴)を避けるため、自身の与信先が倒産しないように追い貸しをするのは、中銀が一国の金融市場や社会経済全体の崩壊を避けるために最後の貸し手になるのと同じ論理に含まれる。念のためにいうと中銀の最後の貸し手と、市中銀行の追い貸しは全く同じという意味ではなく、最後の貸し手も銀行業資本の枠組みの中でなされる、ということである。
(※なお、追い貸しは、本来は倒産するはずの企業への追加融資の場合に言われることが多いようなので、その場合は最後の貸し手とは意味が異なる)

B.3 中央銀行における競争

 資本であれば他の資本と競争するだろう。ここで競争の概念を明確にしておくと、階層的な銀行システムの中で異なる立場で競争する場合と、同じ市場(与信先、金融商品など)で競争する場合の二つの軸がある。

表2 階層的な銀行間システムにおける異なるレベルの競争

 

階層的な銀行システムにおける立場

 

 

異なる

同じ

市場(与信先、金融商品など)

異なる

Ⓒ 

同じ

Ⓑ 



まずⒶは中銀と市中銀行が完全に分業している場合である。このような異業種間の競争は、産業資本と商業資本の間で買取価格の高低をめぐり利潤の分与(移譲)をめぐる競争があるのと同様に、階層的な銀行間システムにおいて立場の異なる中央銀行と市中銀行の間では、中銀からの与信の利子率や中銀の当座預金の利子率の高低を巡って利潤の分与をめぐる競争がある。この競争は容易に理解できる。
 次にⒷはたとえば「中央銀行が国債を大量に購入して長期金利を大幅に押し下げると市中銀行の貸出金利が下落して市中銀行の利潤率が大幅に下がる」という見方がある 。もっと一般化して言うと国債に限らず、中央銀行が有利な与信先や債券を市中銀行と奪い合っていればたしかに競争になり、金融市場に影響を与える 。
 Ⓒは事実上、異なる国の複数の中央銀行が、国際的に階層関係になることを意味する。つまりたとえば、ドルが国際通貨となり、他国の中銀に必要なドル預金を創出し、他国の銀行はドル預金を持つ関係である。
 Ⓓは異なる中央銀行が、取引先をめぐって競争することがありうる。ハイエクの「貨幣の脱国家化」denationalization of money が有名だ。ハイエクは異なる通貨単位を発行する中央銀行同士が貨幣価値の安定をめぐって他の経済主体からの信認をめぐって、つまりどの通貨単位の中銀の信用貨幣が多く求められるか、という競争が生じることを仮想する。
Ⓓのもう一つの可能性は、同一通貨単位圏内において、階層的な銀行間組織における上位の銀行が、単一の中央銀行にならず、競争的な複数の上位銀行の存在する場合である。これは原理論で開口部とされている(小幡[2009]243、岩田[2022]116-117)。これは実際に19世紀にフリーバンキング論争として焦点になった。この論争は直接には銀行券発行の自由をめぐってであるが、核心は、決済中心地の首都で銀行間組織の最上位の一つとなり、イングランド銀行やフランス銀行と競争できるような大銀行を作るかどうか、という論争だった。
 しかし、現代では排他的に最上位を占める中央銀行が定着しているので、こうした競争は、リバタリアンにしか共鳴しないだろう
 

C.貨幣生成論規定としての内生論による信用貨幣の導出

C.1 貨幣の存在を前提とせず、商品から貨幣の生成を説く必要 

これまでの課題
多くの伝統的なマルクス経済学では、価値形態論の前に投下労働量による価値実体を規定するが、日本の宇野学派では、投下労働量による価値規定を前提とせず、或る商品の価値を別の商品の物量で表現する価値形態を論理的に発展させて貨幣形態の生成を説いてきた 。ただしそこで導出されるのは金貨幣だった。
 他方、銀行信用論の発展は、与信による信用創造で銀行券や預金通貨といった信用貨幣が創出される仕組みを、内生的貨幣供給説と似た形で、原理論の中でも説くようになった。ただし、銀行信用による信用貨幣の創出は原理論の機構論(あるいは『資本論』第3巻)のレベルであり、金貨幣の存在を前提にしたものだった。そのため、そのレベルでの信用貨幣論の発展は、貨幣そのものの生成を説くことにはならない。また、信用貨幣の歴史的研究でも、現実の銀行業者は貨幣と金銭債権の取引に特化したものが多く、金貨幣の存在が前提になる。
そこで現代の宇野学派の中では、金貨幣のような物財そのものが貨幣になる物品貨幣ではなく、商品価値を債権の形で自立化した使用貨幣を価値形態論で説く試みがされるようになった。次に、この試みを概観する

C.2 価値形態における「交換を求める形態」と「評価を求める形態」

 宇野弘蔵は、まず相対的価値形態の商品所有者を明示し、交換に欲する商品を等価形態に置くことを価値形態の出発点とした。これを「交換を求める形態」という。その後、現代の宇野学派では「交換を求める形態」の他に「評価を求める形態」も取り入れている。そこでまず、この二つの方法をともに用いる、さくら[2019]の価値形態論を紹介する。続いて、この二つの方法を分析基準として、マルクス宇野の方法、小幡[2009]の方法などを順に取り上げる。紹介は要旨のみとどめる。

C.2.1 さくら[2019]での価値形態論における信用貨幣の導出

まず,2頭の豚を欲する商品所有者B’ が,自分の複数種の商品をセットにして「交換を求める形態」で次のように価値表現する。「→」は交換を求める意味である。
B’:(鉄0.5kg, 砂糖15kg) → 2頭の豚   …… ⑵
この式が、等式の左側にある相対的価値形態の商品セット(鉄0.5kg, 砂糖15kg)の価値表現をしていると考えると理解困難だが、そうではなく、この式は「交換を求める形態」であり、2頭の豚の価値に匹敵する価値物を集めて左側においた、と思えば理解できる。宇野学派ではもともと特定の種類と量の商品を欲してそれを右側に置き、その価値量に相当するように左側の自分商品の量を調整するので、この方法は宇野学派のスタンダードからさほど外れているわけではない。
次に,B’はこの(鉄0.5kg, 砂糖15kg)というセットの商品の価値量を引き渡す約束の証券を発行し,これをεと名付ける。
証券1ε := (鉄0.5kg, 砂糖15kg)の価値量     …… ⑶ 
これは価値表現ではなくB’が設定する定義式である。
B’は、豚2頭に相当する価値量になる商品セットを左側に置けばいいのだから、この証券1εの内容は、その価値量となるようにさまざまに商品の種類と量を組み替えることができる。商品セットを構成する諸商品の価値が変動する場合には、商品セット全体の価値量を安定的に維持するために,B’は商品セットの構成を組み替える。
式⑵と同じことを、B’がこの証券を用いて表現すると次の等式になる。
B’:証券1ε → 2頭の豚   …… ⑷
次に,他の主体Aが自分の商品全体の価値の「評価を求める形態」で価値表現をする。この場合、価値表現の素材として右側の等価形態に置かれる商品は、Aの欲求の対象ではなく、できるだけ価値量が安定したものがよい。B’が構成する証券εが価値量において安定していればそれを用いて価値表現するだろう。たとえばAが保有する小麦90㎏の価値の大きさをεで表現すると次の式になる。
A:小麦90kg  = 証券8ε         …… ⑸
 これは「評価を求める形態」で、「=」は価値量が同じいう意味である。「評価を求める形態」はすぐに交換を求めているわけではなく、自身の保有する商品の価値量を表現しているだけである。その後、多くの経済主体が証券εで価値表現をすれば証券εは商品価値の一般的等価形態の立場となり、その立場が時間をまたいで継続すれば、εは商品価値の貨幣形態となる。
 この方法については、現実にそのようなことが起きるのか、という疑問が生じるだろうが、そもそも価値形態論は物々交換から貨幣が生じる歴史を再現するものではない。そうではなく、この方法は、現実の銀行業資本が、資産の側に与信債権を通じて多様な商品価値を基礎に持つのと同じことを、商品セットの形で複数種の商品の合成によって貨幣の価値が安定する状態を、貨幣生成論として抽象的に示したものである。
 全体像を図解すると以下のようになる。

図4 さくら[2019]の価値形態論の図解

つまり、この方法は「交換を求める形態」によって商品セットを作り、「評価を求める形態」によって一般的等価物になる、という組み合わせになっている。また価値表現をする主体も異なっている。

この「交換を求める形態」と「評価を求める形態」の区別をマルクスや宇野の方法に適用してみよう。

 

C.2.2 マルクスにおける「評価を求める形態」

マルクスは商品の価値の大きさを他の商品の物量で表現する価値表現を、価値形態論の出発点に置いた。簡単な価値形態は次の式になる。
 20ヤールのリンネル = 1着の上衣    …… ⑹
貨幣の存在しない世界で20ヤールのリンネルの価値量を完全に表現するには、上衣以外にも多数の商品の物量で価値表現しなければならない。これが拡大された価値形態となる。
 20ヤールのリンネル = 1着の上衣, または=10ポンドの茶,または=40ポンドのコーヒー,または=等々     …… ⑺
の価値表現は、等価形態に置かれた商品を欲しているのではなく、20ヤールのリンネルの価値を表現するという意味で、「評価を求める形態」である。

続いてマルクスは式⑺の両辺をそのまま左右逆転させてリンネルを一般的等価形態とした(Marx [1890].,S.79)。しかし、そうすると一般的等価物が無数にできてしまい、価値形態論としては一般的等価物や貨幣形態の導出に成功しているとは言えない。

 

C.2.3 宇野の「交換を求める形態」

宇野は相対的価値形態の商品の所有者の存在と欲求を明示し、「交換を求める形態」で価値形態論を説く方法を確立した。欲求の対象となる商品種を多数、挙げれば拡大された価値形態になる。多くの商品所有者による拡大された価値形態において、常に右側で等価形態に置かれている商品が一般的等価物となる。こうして,マルクスのような価値表現式の左右を逆転させることなく一般的等価物を導き出すことを可能にした。

ここで、「交換を求める形態」を一般化して、簡潔に記号で表現する。以下の記号表記は岩田[2022]による。

まずリンネルをW1とし,リンネルの所有者をPW1)と表記する。

次にW1所有者が欲して等価形態に置く商品をW1PW1)と表現する。「∘」は合成関数を意味する。W1PW1))と表現してもよい。W1PW1)は複数の商品から成る商品集合である。これは拡大された価値形態になる。

商品にはW1W2W3,…Wn があり,それぞれの商品所有者が欲する商品の共通集合を次のように示す。

  AK 1PWi ; i K }

この商品集合Aのうち, Kの数が最も大きいAKに含まれる商品が一般的等価物となる。これは一つに絞られるとは限らないが、一つあるいは少数に絞られてくることはわかる。一般的等価物になれば、直接的な欲求の対象としてだけではなく,間接的な交換の手段としても欲求される。

 しかし、一般的等価物になるには、まずは使用価値として他の多くの商品所有者から欲求される必要がある。そのため、物品貨幣しか導出できない。信用貨幣があるとすれば、物品貨幣との交換を義務付けた兌換信用貨幣にしかならない。そのため表1の区分で言えば信用貨幣の観点からは②のmetallismになる。

 

C.2.4 小幡[2009]の間接交換の方法

小幡『原論』も宇野と同様に「交換を求める形態」で展開するが,拡大された価値形態で間接交換を重視する。(※宇野も間接交換を考慮するが、それは一般的等価物になった後である。宇野[1964]27)

ここで小幡[2009]の方法を記号で表現してみる。

まず前項と同じく、或る商品W1の所有者をPW1)、この所有者が欲する商品をW1PW1)とする。次に、W1PW1)の所有者をPW1PW1)、その所有者が欲する商品をW1P

W1PW1)とする。

W1 W1PW1PW1) であれば直接交換できるが、そうでなければ直接交換できない。そこで、PW1)はW1PW1PW1)の入手の可能性を調査する。自分の商品W1を欲していて、かつ、W1PW1PW1)を所有する主体を見つければよい。そうするとPW1)にとって間接交換が可能になる。

ここでW1を欲する主体をP1W1)と表記する。P1の「-1」は所有していない主体の意味だが、所有を意識した非所有、つまりその商品を所有しようと欲する主体である。さらにP1W1)が所有する商品をWP1W1)とする。

図5 間接交換の手段となる商品の集合

つまり、{ WP1W1} { W1PW1PW1}が間接交換の手段になる。

 間接交換の全体像を示すと、PW1)はまず、自分の欲する商品に対して次のように価値表現をする。

W1 = W1PW1

しかし、直接交換ができないので、まずは、間接交換の手段に対してW1の価値表現をする。

W1 = { WP1W1} { W1PW1PW1}

この右辺は集合なので、この段階で拡大された価値形態になる。右辺の集合の中にW1PW1)の所有者の欲する商品{ W1PW1PW1}があるので、W1PW1)の所有者は以下のように価値表現する。

W1PW1) = { WP1W1} { W1PW1PW1}

PW1)にとってはこの間接交換の手段は使用価値の面では何でもよい。その意味で純粋な価値の塊となる。多数の商品所有者から間接交換の手段として求められるものは一般的等価物になる。

宇野との違いを検討すると、宇野の場合、多くの商品から使用価値の面で欲せられる商品が一般的等価物になるが、小幡の場合は、間接交換の手段となる商品は、少なくとも最初に価値表現をする主体PW1)にとっては、直接的な欲求の対象ではないので、使用価値の面が薄れるとともに、現物ではなく、受け取り債権の形でもよいので、一般的等価物が債権になる可能性が示される。

なお、小幡[2009]では、価値形態論は交換を求める形態によって進んでいくが、その裏側で「評価を求める形態」も進んでいく、としている(小幡[2009]42)。

 

C.2.5 岩田[2022]の商品集積体に対する債権の方法

岩田[2022]は小幡[2009]の方法について次の2点を変更した。

a) 間接交換の集合から一般的等価物を一つの商品種に絞り込まず、そのうちの部分集合を一人の主体が所有している、とした。以下、この主体をXとする。

 b) 債権化は間接交換の手段となる商品だけでなく、最初に相対的価値形態に置かれる商品、これまでの表記方法ではW1、も債権化する、とした。

 

 上のa)の想定のようにXが、間接交換となりうる商品の集合を所有していれば、その商品集合全体としては間接交換となる価値表現の数が増える。さらにb)の想定のように、PW1)に対して、その商品集合のどれかを引き渡す債権の見返りに、W1を受け取る債権を得れば、Xのもとには、もともと所有していた複数の商品の他に、受取債権の形で多数の商品が集積してくる。同時に、商品引渡債務も集積する。

 市場全体では、最初に価値表現をする商品所有者PW1)は多数、存在するので、そうした集合を{PWi)}とし、最初に等価形態に置かれる商品の所有者も多数、存在するので、そうした主体の集合を{PW1PWi)}とする。そうすると, X,{PWi)},{PW1PWi)}における資産・負債の関係は以下のようになる。

 図6 資産・負債の構成



 Xの資産は、もともとXが所有していた現物商品{WXk}に加えて、{Wi}受取債権が追加されて,{Wi}∪{WXk} となる。この和集合がXの下で間接効果の手段となりうる商品の集合である。

{{Wi}∪{WXk}}⊃{W1PW1PWi)}

であればXは商品交換を媒介できる。

ここでXは多数の商品の現物と受取債権を保持するとともに、同時に多数の商品の引渡債務を負う商品所有者である。その際、商品所有者として商品経済的利得の最大化を目指している。というのは、Xはこの債権債務関係の形成に際して、

1){PWi)}の商品については、他の商品所有者から等価形態に置かれやすいかどうかをしっかりと調査して、そうした商品のみについて債権債務関係の形成を承認する。そうすることで自分の下にある商品の交換可能性を高めることができる。

2)債権債務関係の形成において{PWi)}に対してXの方に有利な交換比率とする。この2つによってXは自身の所有する商品の現物と債権の交換可能性を高めるとともに、交換比率を有利にすることで商品所有者としての利得を最大化できる。

このように貨幣が存在しない状態では価値量の集計ができず、価値増殖が計測できないので資本にはならない。

 この岩田[2022]の方法ではXに対する債権は、拡大された価値形態のように多数の商品の種類と量が連鎖するという困難が生じる。ただしこれは、貨幣の価値量を知るために物価表を逆に見るのと同じ困難である。便宜的な対処方法としては、Xの資産のある代表的な商品の単位量を計算単位にして、それをXの発行する債権の単位にすればよい。もともとの代表的な商品の単位量と、債権の計算単位の価値関係がずれることは大いにありうるが、その場合は、計算単位は名目上のものとして機能し続ける。こうしたことは、金属含有量が安定していなかった時代に、金属貨幣について素材の地金価格と硬貨の額面価格がずれことがよくあったが、それと同じである。

他にもXの発行する受取債権(Xにとっては引渡債務)の仕組みについては詳細に論じることができるが、ここでは省略する。

最後に原理論体系全体にとってのXとは、大量の商品を在庫としてもつ商人資本と、商人資本に与信をして信用貨幣を創出する銀行業資本を含めた商品市場と信用市場の全体を包含する存在である。この複雑なネットワークは、原理論の冒頭の商品の背景にある。このネットワークは原理論の展開の中で徐々に表れてくるものである。


C.2.6 小幡[2023]の、簡単な価値形態の連鎖による方法

 小幡[2023]は、これまでの宇野学派の価値形態論のみならず、小幡[2009]の内容も大きく否定するものである。全体像を説明するのは困難なので「交換を求める形態」と「評価を求める形態」の観点から、これまでの説との違いを検討する。

 先に、いくつか重要な点を挙げておくと、


ア)「交換を求める形態」を否定する。等価形態に置かれる商品は即自的な商品ではなく、相対的価値形態の商品の所有者、つまり価値表現をする主体が抽象的に再構成した「モノ」である。(46頁) つまり、相対的価値形態は商品で、等価形態は「モノ」になる。

イ)この抽象性ゆえに等価物は現物ではなく、同種のモノを受け取る債権でもよいことになる。(47頁)

ウ)拡大された価値形態を否定する。商品の価値は同種の商品のうちに共通して内在するものなので、相対的に価値形態に置かれる同種の商品が、所有者の違いによって恣意的に異なる種類や量の商品によって価値表現されることはない。商品自体に価値が内在するのは市場の《場》であり、個々の経済主体はその《場》に拘束されながら行動する。価値形態論は、個々の商品所有者の主観とは独立した《場》そのものを対象とする(48-49)。所有所有者が様々な価値表現をするのはその《場》を前提にした上でのことである。

エ)同種の商品は、別の一つの商品で価値表現する。これは「評価を求める形態」である。複数であれば、上記ウ)の恣意性が生じ、他のすべての商品種で表現すれば、『資本論』と同様にすべての商品が貨幣になりうるためである。


しかしこれらの条件の下で、商品貨幣は論理的には一つの形に定まらない。その理由は、上記のイ)とエ)による。この小幡の論文は、「直接間接(直間)問題」「代表問題」「統一問題」の3つの問題として説明している。

まず「直接間接(直間)問題」上記の イ)の問題について。簡単な価値形態の状態で、等価物がモノの現物である場合が直接型、そのモノへの債権が等価物になる場合が間接型である。どちらもありうる。

 たとえば商品1~15まであり、それぞれ相対的価値形態と等価形態が次のような組み合わせになっているとする。

表3 対的価値形態と等価形態の組み合わせ(例)

相対的価値形態

1

2

3

4

5

6

7

8

9

10

11

12

13

14

15

等価形態

4

7

14

14

11

7

8

6

14

13

3

11

15

8

10

相対的価値形態 → 等価形態 のように矢印でまとめると次の図になる。


図7 代表問題と統一問題

まず、図④の左側では1, 2, 3, 4, 5, 6, 7, 8, 11, 12, 13, 15が一つの系を成しており、矢印をたどっていけば、いずれも6, 7, 8のサイクルに至る。こうしたサイクルは、個々の商品の相対的価値形態

と等価形態の組み合わせがいかなる形であろうが生じる。ただしサイクルが一つの商品の場合も含む。図7で言えば、サイクルを構成する6, 7, 8はいずれも一般的等価物になりうる。仮に岩田[2022]の表記法を用いると、同じ系に属するすべての商品は次のようにサイクルの要素に帰着する。

(W1P∘)W1PWi)⊂ { 6, 7, 8 } 

 ここで(W1P∘)n (W1P∘)が何回か繰り返されることを意味する。

サイクルを構成する6, 7, 8は、矢印の連鎖をたどっていけば自分自身に戻ってくるので以下のように表現される。

W1PWi)= Wi 

(※岩田[2022]の方法では表記の中にPがあるように、商品所有者の欲求が矢印を決める。それに対して、小幡[2023]は商品所有者の欲求ではなく、商品それ自体が矢印を決めるので、意味が異なる。)

 

ここで「代表問題」とは、{ 6, 7, 8 } のように複数の商品(モノ)種がサイクルを構成する場合、{ 6, 7, 8 }のどれか一つを選択して代表にするか、それとも{ 6, 7, 8 }といった複数種を丸ごと代表にするか、という問題である。

「統一問題」とは図7の左と右のように表現系が分裂している場合に、どのように統一できるか、という問題である。図7は系が分裂している形を示したが、これは分裂しないこともありうる。例えば図7の⑮が等価形態に⑩を置く代わりに⑫を置いていれば系は一つになる。

 統一問題はそもそも系が分裂しているが、もし系が一つにまとまっているとすると、貨幣の型は直接間接(直間)問題と代表問題の二つを掛け合わせて分類することができる。形式的に考えると次の区分になるだろう。

 

表4 代表問題と直間問題の形式的な構図

直接間接(直間)問題

直接型

間接型

代表問題

択一型

1:物品型貨幣

包括型

4:債権型貨幣

 しかし、小幡[2023]では1[直接型+択一型]の:物品型貨幣と、4[間接型+包括型]の債権型貨幣に限定している。

これらの複数でありうる組み合わせは同じ商品貨幣といっても、複数の異なる形に変容する。小幡[2023]の54-55頁の記述をまとめて、さらに、貨幣の変容についての構図(たとえば(小幡[2020])を合わせると以下のように図式ができるだろう。


表5 貨幣の変容と多態化の構図

多態化(多数ありうる)

補助硬貨、兌換銀行券、商業手形など

補助硬貨、銀行預金

実装

物品貨幣

不換銀行券

変容(どちらか)

物品型

債権型

展開

商品 → 貨幣

このように貨幣の変容の構造自体はこれまでの小幡の説明と整合的である。

この方法についていくつか疑問は生じるだろうが、今後の発展の中で改めて検討すべきものも多いだろう。


D.まとめと展望

 本稿では、近年、再興しつつある内生的貨幣供給説を検討することで、内生的貨幣供給説として同じに見えるものでも、市場経済に根差して発生し、信用貨幣の発行者が健全な債権を保有するか、そうでないか、異なる見解があることを指摘した。このように貨幣供給における内生的な考えの中にある区別は市場経済の内からか外からかという問題として、原理論における貨幣生成説における内生と外生に対応させることができる。そこでA節では、貨幣諸学説を、貨幣供給における内生と外生、貨幣生成における内生と外生に区別した。

 内生的貨幣供給説が貨幣生成論において外生化する契機となるのは、主に中央銀行の創出する貨幣の評価である。極端なものはMMTで、政府と中銀が一体化して市場経済の外側に立つ。そうでなくとも、中銀の発行する貨幣の流通根拠は政治権力による強制通用力だという認識も多い。そこで、B節では中央銀行も、市中銀行と同様に市場経済の中で、つまり銀行業資本として、与信によって貨幣供給することを論じた。もちろん、中央銀行は市中銀行のように、直接に自己の利潤率の最大化を目指すというわけではないが、利潤率最大化を目指す市中銀行と同様に銀行業資本の枠組みで行動することを確認することで、中央銀行の信用貨幣も貨幣生成の内生論でとらえることができる。

 最後にC節では、貨幣生成の内生論にとって不可欠な、価値形態論の最近の発展を紹介した。宇野学派の伝統的な価値形態論では、多くの所有者から有用性としての使用価値が認められる物品貨幣しか導出できないが、近年、筆者も含めて、特定の物品貨幣を経ない不換の信用貨幣の導出の試みが発展しつつある。本稿では、宇野学派の伝統である「交換を求める形態」を基礎に商品の現物と債権の集中から信用貨幣を説く方法と、宇野学派の伝統から部分的に離脱して「評価を求める形態」を重視する方法がある。本稿では簡単な要旨のみにとどめたが、今後さらなる発展が期待される。

 

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