信用創造の限界
銀行業資本は受信資本の保有する商品価値を基礎に、与信による信用創造で信用貨幣を無限に創出できる。そう言うと、自己資本比率などの銀行への規制のために無限にはできない、という異論が出る。しかし、原理的には無限に信用創造できるからこそ、規制がある、と考えるべきである。また、原理的に無限に信用創造ができると認識していれば、現実にも規制を回避する様々な方法が試みられることは容易に理解できる。
ただし、原理的に信用創造は本当に無限にできるかというとそうでもない。信用貨幣は受信資本のもとにある商品価値を基礎にするので、その商品の販売可能性によって制限される。図式化すると次のようになる。
信用貨幣としての預金通貨の価値は、最終的には受信資本のもとにある商品の価値とその販売可能性によって基礎づけられている。これが信用貨幣の「裏付け」backedになる。しかし商品の価値の実現、つまり販売の可能性は将来の予測であり、販売されないまま価値が毀損し、価値の裏付けを喪失する場合もある。その喪失に備えるのが貸倒準備としての自己資本である。これが信用貨幣の価値の「補完」backstopになる。場合によっては、他の資本や政府といった、外部からの補完を受けることもある。
中央銀行、あるいは一般的に言えば上位の銀行による「最後の貸し手」機能では、不安視された銀行の資産そのものは元利払いの確実性がある健全なものなので信用貨幣の裏付けは維持されている。つまり最後の貸し手は「補完」ではない。
つまり、原理論での信用創造の限界は、「裏付け」の面からは与信先の支払い確実性、「補完」の面からは貸倒損失を吸収できる自己資本である。
もちろん、これらの「限界」は個別経済主体の予測によるものであり、明確な量的限界があるわけではない。限界を超えていたかどうかは事後的に、銀行の破綻、あるいは生き残りとして判明する。銀行の破綻は自由主義的な経済ではよく生じることでだった。その後、資本主義の組織化が進み、1930年代の大不況と第二次世界大戦以降には様々な銀行への規制によって明確な形での「限界」が示されるようになった。
近年、最後の貸し手機能が拡張されて、中央銀行は不良債権となる銀行へ貸し出すのも問題ない、という議論を聞くこともある。つまり、中銀は政府と一体なので、中銀の損益が黒字であろうが赤字であろうが、政府へ給付しあたり、逆に給付を受けたりするだけだ、という主張である。
しかし、中央銀行も銀行である限りは、返済の確実性を確保して与信をする(あるいは証券を買う)。あらかじめ損失が確実な与信は、銀行としての与信ではなく、非市場経済的な給付であり、上記の「補完」にあたる。
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