在庫に満ちた市場

 在庫に満ちた市場

 最近の原理論を理解するために重要な点は、「同種大量の商品」と「在庫に満ちた市場」という概念である。つまり、同種大量の商品が売れるのを待つ在庫の形で市場に満ちているという考えだ。世の中には需要と供給が一致するように価格が決まると説く理論もあるが、資本主義経済ではそうではない。資本主義的な生産様式で生産される商品では、常に売れるのを待っている商品が市場に満ちている。ここでいう在庫とは陳列棚や倉庫など場所はいろいろだが、売れるのを待っている商品の全体である。

 需要と供給が一致するという考えは、その商品に対するすべての売り手と買い手が一堂に会し、すべての商品がその場で売り切れることを前提とする。しかし資本主義的な市場経済では何らかのコストで入手した商品を販売しており、何らかの価格で売れることを想定して販売する。すぐに売れなければ在庫として持ち越す。その価格とは、大量に存在するこの種の商品であればこのくらいの価格、という「相場の価格」であり、その種の商品の中に内在する商品価値である。常に販売を待っている商品が存在するからこそ、貨幣所有者は自分の意思次第で商品を買うことができる。

 「この在庫に満ちた市場」から派生して、重要な概念が原理論の中のあちこちに現れる。

 まずは流通過程の不確定性である。大量に存在する同種の商品を多数の売り手が販売している場合、どの売り手からいつどれだけの商品が売れるかわからない。個別の商品についていれば、売れるまでの期間、つまり販売期間が不確定、となる。ここ20~30年の原理論ではこの流通過程の不確定性から、商業資本や銀行信用で様々な発展をしてきた。

 商品が売れなければ価格が下がって需要と供給が一致する、と思うかもしれないが、最近の原理論では次のように考える。自分が値下げすると、他の売り手も追随して値下げをして自分の売り上げはさほど増えず、しかも値下げするから収益は減るかもしれない。こうして売り手たちは互いに牽制し合って相場の価格が維持される。ただし、中には差し迫った支払いの必要からすぐに売らなければならない売り手も出てくる場合もある。その場合は大きく値下げをするものが現れる。これが価格の下方放散となる。しかしこれは一時的局所的にとどまる。このあたりのことは小幡『経済原論』66頁を参照。

 流通論においては、マルクスのようにあらかじめ投下労働量といった価値量を前提するのではなく、自己の市場経済的利得を追求する個別の経済主体の相互作用が商品の内在的な価値を析出し、さらに内在的な価値を前提とした価格のばらつきを生み出す。(労働価値説の現在のおける理解は今後、取り扱う)

 ここで値下げについて考えると、その商品に対する社会全体の需要を増やすのではなく、他の売り手と差をつけることで自分から売れる量を増やそうとするからだとわかる。これは個別的販売の偶然性へのコントロールである。詳しくは、岩田「商業機構における多型的展開:原理論と段階論からの検討」参照。

 さらに「在庫に満ちた市場」の概念は、資本主義経済における人間に意識にも踏み込んで考えることができる。在庫の満ちた市場は、大量の社会的な富が売られようとして人々に積極的にアピールされる場である。貨幣を持たない人にとってはそのアピールを不断に受けながらもその富から排除され、より一層、疎外感を強めることになるだろう。また、非市場の市場化として新自由主義が人間の意識に与える影響を考える起点にもなる。ただし、この疎外論はマルクスと同じである。

 

 在庫に満ちた市場という概念は、上記以外にも信用論など、現在の原理論において重要な基礎となっている。

しかし最近の原理論はさらに発展しつつある。在庫に満ちた市場は貨幣所有者が買おうと思えばいつでも相場の価格で買える市場である。しかし最近では「組織化」として大量に買ったり、継続的に買ったりすることで商品を確実に確保したり、安く買ったりする、という議論が増えてきた。

在庫に満ちた市場が前提とするのは、多数の買い手が自分の必要な商品をスポット的に小単位で、不特定の多数の売り手の誰かから買う、という市場ではある。しかし「組織化」の議論では、産業資本が原材料を買ったり、商業資本が大量に仕入れたりするような、相対的な売買関係を意味する。この「組織化」では在庫に満ちた市場を広く前提としながらも、その中の一部に凝固した組織的な売買関係が生じる。組織化論については大学の紀要に論文を書いた。まもなく公刊されるので、この続きはその後にする。


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