『これからの経済原論』の価値形態論について

 


 従来の価値形態論では、金といった単一物品の商品を貨幣として導出し、その貨幣への交換の約束として信用貨幣を説いていた。しかし金兌換停止の資本主義経済の貨幣を原理論で論じるために、単一物品貨幣を前提としない貨幣論が試みられるようになった。その一つが『これからの経済原論』の価値形態論である。この本が出版された2019年秋から何度か研究会で取り上げ、また2020年度の授業でも用いてきた。最初はよくわからなかったが、論理展開は以下のようになっていると考えられる。

 従来の価値形態論との違いのポイントは2つあり、第一に商品セットが価値形態に現れること、第二に、「交換を求める形態」と「評価を求める形態」が交替しながら進んでいくことである。

 ㋐基本構造:

1)商品所有者Bが自分の商品を複数セットにして、交換を求める形態の価値表現を行う。

B:(鉄0.5kg, 砂糖15kg) → 1頭の羊   ………①

2Bはこの(鉄0.5kg, 砂糖15kg)というセットを証券εと名付ける。セットの構成要素とそれらの比率は可変。

1ε := (鉄0.5kg, 砂糖15kg      ………② これは定義式。

3)次に、他の経済主体Aが、この証券で自分の商品の価値の評価を求める形態として価値表現を行う。

A:リンネル90kg  = 8ε         ………③

4)さらに多くの主体がこの証券で価値表現を行えば、この証券が一般的等価物となり、証券が流通すれば貨幣となる。

㋑補足説明 ①でBは、交換によって羊1頭を得たいので、相対的価値形態に置く自分の商品の種類と量を調整する。ここでなぜ単一商品ではないか。この価値形態論の基礎となったと思われる論文には、鉄あるいは砂糖の量が少ないので、2種類の商品を合わせる、という説明がある。

複数の商品のセットは、個々の商品の価値量が変動しても相殺され、価値量が安定になりやすい。

そのため、Aは自分の保有商品の資産評価のために、その安定した商品セットで自分の商品を価値表現する③。

1ε := (鉄0.5kg, 砂糖15kg, 2頭………………)

となればさらに安定する。

なお、②式と③式は左右が逆転しているように見えるが、価値表現をする主体がB’とAというように主体が異なるので逆転ではない。

また、貨幣単位εは証券の設定者Bによって恣意的に決められる。

 多くの経済主体がこのεを等価形態に置けば、εは一般的等価物、そして貨幣になりうる。

等価形態に置かれる商品はそれ自体の価値の大きさは表現されない。その意味で相対的価値形態の位置から排除される。そのため、εが価値表現の材料として用いられ、貨幣として信認されていれば、商品セットの中身は伏せられ、「1εは1ε」とのみ認識される。しかし、信認が揺らげばその中身が問われるようになる。

 ㋒解説:この価値形態論では、交換を求める関係「→」と、評価を求める関係「=」が何度か入れ替わるのが特徴である。マルクス『資本論』の価値形態「20エレのリンネル=1着の上着」は20エレのリンネルの価値の大きさを表現する。20エレのリンネルの評価を求める形態といえる。宇野の場合では、リンネル所有者が1着の上着が欲しい、ということが価値形態の展開の機動力となっており、交換を求める形態で全体を押し通しているといえる。小幡『原論』では、交換を求める形態で貨幣まで進んだ後で、さしあたり、交換に供せられない部分(つまり20エレ以外のリンネル)の資産の評価を求める形態が現れる(小幡[200942頁)。『これからの経済原論』では評価を求める形態を、価値形態論の出発点にまで前に繰り出した、といえる。

 宇野の説や小幡[2009]では、等価形態に置かれる商品は、相対的価値形態の商品所有者の直接的消費の欲望の対象ということで一貫しており、常に交換を求める関係「→」の中で説かれるが、『これからの経済原論』では評価を求める関係「=」を挿入することで、直接的な消費の対象とはならない証券εを等価形態に置くことを可能にしている。

㋓疑問:評価を求める形態で、等価形態に置かれる(価値表現の材料に使われる)としても、それが交換を求める形態の等価形態に置かれるとは言えない。つまり簡単に言えば、そのセットを欲しがる人がいるのか? とはいえ、商品価値の評価の素材となるだけで、間接交換の手段として流通する、と考えられているのかもしれない。

 この先は、そのうち、原理論の専門家が議論をするだろうから、それをみて続きを考えたい。


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