サッカー選手の感情労働と新自由主義
サッカー選手がゴールしてその喜びを自然発生的に表現するのであれば、直接的欲求と結びついた行為であり、労働ではありませんが、ファンをひきつけるために目的意識的に行う行為であれば労働として感情労働になります。とくに運営会社から指導されるようなことがあれば目的意識性は高まるといえるでしょう。感情労働としては深層演技になるでしょう。
ところで、新自由主義では、非市場の市場化として、これまで商品ではなかったモノが商品になる傾向が強まります。次に、感情労働の商品化について考えてみましょう。
ここでサッカー選手は個人事業主ではなく、運営会社の雇用労働者だとします。そうすると資本としての運営会社は、サッカー選手という労働者を雇って、入場券やグッズを販売して収益をあげ、収益マイナス費用としての利潤(利益)を得ます。また、広告料収入も、広告の場の利用権を他の資本に販売すると考えれば、同じように考えられます。
入場券やグッズは、同種大量に存在する商品としての性格を持っており、ただそのラベルが選手やチームによって異なると考えれば、標準的な資本主義的市場で理解することが可能です。選手に人気があればその商品の売れ行きは良くなると見込まれるでしょう。ただし選手の人気が出るかどうかということと、感情労働を行うかどうかは別問題です。上記のように直接的欲求結びついた自然発生的な表現パフォーマンスに人気が出ることもあります。他方で表現パフォーマンスに不足する選手に対しては、運営会社が販売促進のために、しっかりと目的意識をもった感情労働として行うことを求めるかもしれません。そうするとその選手には感情労働が求められます。労働者自身が自発的に感情労働を行うだけでなく、AI(人工知能)による笑顔トレーニングアプリに似たことも起きてくるかもしれません。そうなってくるとサッカー選手のゴールセレブレーションは新自由主義的な気がしてきます。
ところで表現パフォーマンスはサッカー選手の「サービス業としての商品」として商品の本体を構成するように思えそうですが、ここでは「販売促進行為」という流通費用になる、としておきます。「サービス業としての商品」だとすると、感情労働としての表現パフォーマンス自体が商品になるように見えるので、それはよくないと思います。これはある商品のCMに出演しているタレントの演技や感情労働も、その商品の価値の一部を構成する、という考えにつながります。
資本主義的市場経済の観点から分析すれば、入場料やグッズは物的に同じものであれば商品の内在的価値(「相場の価格」)で販売され、表現パフォーマンスやグッズに表現された選手の違いは販売量に影響する。もし特定のチームや選手のグッズの価格が高いのであれば、売れ行きが良い、あるいは一時的に販売が滞って在庫がたまっても在庫を維持できる、という理由で、価格の下方放散が抑えられている、と考えられます。
また、新自由主義としての現代資本主義論の観点からは、組織化の時代(1980年代まで)に政府の認可によって成立して公共的な性格を持っていたテレビ放送が、ケーブルテレビやインターネットという技術的な変化を経て、市場と競争が拡大する新自由主義の場となった、という歴史的変化を踏まえる必要があるでしょう。そのうえで、動画配信は何を売買しているのか、サブスクリプションは何に対して支払っているのか、その内在的な価値はどう考えられるのか、といった問題へと発展していきそうです。
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