「マルクス経済学の現代的スタンダードを語る」の「労働概念の拡張」の討論の文字起こし
昨年10月23日の「マルクス経済学の現代的スタンダードを語る」(東京経済大学術フォーラム)の第3報告「労働概念の拡張」での討論の文字起こし。
前回の記事の報告の文字起こしと同じく、私(岩田)がかなり手を入れた。
以下が討論。質問番号は、企画全体の質問番号。
第3部の討論
岩田 ありがとうございました。今回の報告の目的は、労働価値説にとらわれないところで労働過程を考えるときに、さまざまな見方ができるでしょう、より視野が広がるでしょうという話です。労働価値説以外は聞くつもりがない、という方もいらっしゃるかもしれませんが、今回はそれについて取り上げません。小幡先生が本日に紹介した別の論文(「マルクス経済学を組み立てる」)を読んでもらうことになります。
まずは割と簡単そうなところからお願いします。労働のコア概念です。
◆質問30「労働のコア概念について質問します。資本主義のもとでの労働を考えた場合、主体Aが欲求Bを把握して、働きとして目的物を設定する行為は、「商品が他人の使用価値」であることと共通すると考えてよいのでしょうか。
小幡 この絵は結構、面白いと思って、自分が描いてみました。主体が2つあります。いってみれば今までの労働過程論は、まずは単体1人の労働者しか考えていなくて、それで何となく自分の頭の中にある欲求について、ミツバチが突然に働き掛けますが、それを対象物にして欲求について、本当はこちらですが、見えないイメージを作り、それを六角形の巣をイメージします。突然にこのように働き掛ける構造になっています。いずれにしても、単体の労働者の世界でした。
もちろん労働する主体は単体でも働くことはありますが、人間の労働の特徴は、人の欲求でも自分の欲求でも、あるファンクション、機能にもやもやとした欲求を、はっきりとした仕様をもった形のものにまずは作り上げます。この労働の活動があります。このようなものは労働ではないと言いますが、目的意識的活動と言う以上は、どのように人間は目的設定をするのか、どういう能力があるのかということを第一に考えなければいけないだろうと思います。
ここの部分を第1フェーズ(相)と考えました。感情労働の質問もあります。要するに、こういう相手の感情をどのようにするかです。自分が感情で感情に働き掛けるのではなくて、意志の力で相手の感情をはっきりとした形に作り上げていくことができるのか、実はこのような活動が広くあります。これが第1のフェーズだと思います。それのベースになっているのは、人間のコミュニケーションでは、身ぶり、顔つきであろうと、さまざまなコミュニケーションの力をもって働き掛けます。このフェーズフェイズとは非常に見ておかなければいけません。それが第1です。
次に手段です。ここが感情労働と言われている方の質問は、自分の意志でどのように自分の感情をどこに変えればいいのかについてです。欲求プラスアルファぐらいです。この世界では自分で自分に働き掛けるような話ですが、もう少し広げて考えたほうがいいと思いました。感情労働の話に答えてしまいました。
岩田 感情労働についての質問は、実は泉先生への質問でした。
小幡 これは答えませんでした。1番目のものは、商品経済的な関係になれば、この商品が他人のための使用価値であることにつながっていきますが、より広く商品であろうと、なかろうと、というレベルの話を今はしています。
岩田 相について質問があります。目的設定、手段設計、逐次コントロールの、三つの相があります。少し言い方が違いますが、目的を設定して、手段を設計して、そして実際に自然過程をコントロールして労働を行うということです。3つの相の関係がどのようになっているのかということです。
◆質問29「三つの「相」の関係は? 排他的? 同時存在? 因果関係?」
小幡 この場合は排他的ではありません。例えば貨幣論では排他的というのが強く出ます。物品貨幣か信用貨幣なのかは、「変容」のレベルでいくと両方があるとはならないという意味では、みなさんと同じように排他性があると私は考えています。
しかし、全ての変容論が存在として排他的、というわけではないと思います。そういう意味で、同時存在といえば同時存在ですが、同時存在のときに気を付ける必要があるのは、同時存在ということは三つが重なって分からなくなっている、というのでは全くありません。同時に存在しながらA、B、C、第1相と第2相と第3相ははっきりと区画します。理論なのでA、B、Cにはっきりと分かれるという意味では同時に存在しますが、「同時にAであり、かつBである」ということはあり得ないという意味では同時存在ではありません。
変容論の大きな場合の分岐の話では、同時にすることさえ防ぐことができれば、私は理論上ではできていると思います。AとBの二つが重なってしまうような概念は、理論の中でよほどのことがなければつくるべきではないと私は思います。A的Bのようなものをつくっていくことや、Bは広義のAであるというように、二つを重ねてしまうようなロジックの作り方をすると、Cがはっきりとできるような推論はできなくなってしまうので避けます。
ただ、存在として同時に二つがあるかないかという意味では、実在の形で物品貨幣と信用貨幣が同時に本位のレベル、つまりそれで価値表現をするという機能においては2種類が同時に併存することはない。つまり貨幣の場合は2つの相が同時に存在しない。その意味では貨幣では二つの相は排他的です。
岩田 はい。まだ重い質問が後ろに残っていますが、最初に軽いところからしないとみなさんが分からないので、こちらからお願いします。
小幡 はい。資本主義の発展の中において、労働がどのように発展してきたのか、歴史的変容という言葉を私はできるだけ避けたいですが、歴史的変容はここです。変容はロジカルな分岐の可能性の話をしているので、歴史的に変容することは発展と言います。ここは外的条件がいろいろと入ること、技術の状態や労働者の組織能力の問題等、さまざまないくつかの外的条件を入れながら、歴史的な発展は考えていかなければいけません。
ただ、発展といっても、むやみやたらにどうにでもなるわけではありません。そのベースには労働の基本的なコア概念があり、理論上で拡張の可能性ができていれば、どういう方向での外的条件が入ったときに伸長があり得るのか、そのようなことを考えるベースになるでしょうと私は考えています。
岩田 ありがとうございます。まだ時間があるので、もう一個だけ軽い質問をします。より具体的に話してもらうと分かる気がしますが、具体的にせずに抽象的に考えるべきだと言われるかもしれませんが。
◆質問27「20世紀の操作操縦型の労働と、AI時代の労働を「相」から考えるとその違いはどう説明されますか?」
小幡 未来の時代の労働を「相」から考えると、どう違いますかとあります。AIの時代のようなことを聞くと、理論でしている人間は引っかかってしまいます。AIは何ですかとなってしまいますが、今はその辺りについて、それほど理論にシビアではない人もいると思います。今のAIの時代と言うことについて、私はコンピュータサイエンスのようなものだと思います。人工知能については中身の広い範囲をおわない。そうではなく、センサーや手のように動くアクチュエーターといった物によるさまざまな組み合わせを考えたほうがいい。人工知能と言われているものに考察を絞り込まないほうが私はいいと思います。
その話はともかく、私はここで結構、20世紀の操縦型労働を強調しました。本文を読むと詳しく書いてあります。『資本論』には機械制大工業になると労働は単純化して、どんどんとなくなっていくと、機械と労働の排他性がとても強く書いてありますが、よく考えてみると、20世紀に広がっていった機械は、実はオペレーターやドライバーがいます。ミシンでも何でも、ある意味で非常に理論性が強い機械が出てきますが、自動車といいながら必ず運転手がいなければ意味がありません。そういうものを「自動」車と言うのか? 疑問にもなるでしょう。そういう意味では、操縦型労働は労働を非常に多く吸収するような性格の機械でした。
AIの時代というか現実を見てみると、そこも操縦型労働に対する圧力が非常にかかってきています。コンピュータサイエンスが発展してきます。もう一つはセンサーの発達、それによって大量のデータが文字にならずに、目で見たような画像レベルでデータが入ってきます。入ってきたデータも全てデジタルデータなので、今までに扱っていた文字や音と同じデータとしてコンピュータの中で操作できて、大量処理ができるようになりました。
そのような技術が出てくることで、今までに人間が見て手で操縦をする、ハンドルを回す、身体を使っていた部分に対して、相当に柔軟なアクチュエーターという手や足のような働きをするようなものがいろいろと出てきました。その総体が今の労働の構造を変えようとしていることは確かだと思います。
岩田 相から言うと、何か言えることはありますか。
小幡 相から言うと、3番目の逐次制御が操縦型労働の最大の役割でしたが、そこの部分のウエートが後退していくことはあります。その分、逆に手段設計のほうが実はとても労働吸収的です。コンピュータは命令をすれば自然にしてくれるものではありません。今の段階では、プログラムを書くことはとても時間がかかります。それもいずれはどんどんと自動化されていく世界だと思いますが、今のところはコンピュータのプログラムを書くようなレベルです。広い意味ですが、そういう部分、手段設計のほうに労働がずっとシフト、変形していっています。相から言えることはそういうことだと思います。
岩田 こちらの領域からこちらの領域ということですか?
小幡 そうです。
岩田 理論家の方は具体例に踏み込まないところがあるので、実証的なことについては、みなさんご自身で考えてもらうといいかもしれません。
次は報告に即した上で、とても難しい質問がいくつかあります。時間がかかるかもしれませんが、丁寧に答えていただきたいと思います。
◆質問31「他者とのコミュニケーションを通じて初めて「目的」が明確化されるというなら,労働に「目的意識的活動」という単独の労働過程でも成り立つような定義を与えてきた点も,再考されるべきではないのか。それに関連して,「自分自身の空腹感ならはじめから、たとえば目玉焼きのかたちで現れるでしょう。さきにモヤッとした空腹感一般がまずあって、それをなにでどうやって満たすか、悩むことはありません。」とあるが,そうでもないような気がする。漠然とした空腹感と種類と量が特定された欲求は,単独個人においても区別される。しかし自分一人だけの問題なら,適当になんでもいいから食べてしまえば空腹は満たされるので,あまり目的意識的活動が要請されない。他者がいてはじめて,労働と呼べるような人間的活動がなされるのではないか。」
岩田 要するに、これは、1人では目的意識はなくて、他者に対してでなければ目的意識がないのではないかということです。割り切ればそういう意味だと思います。
小幡 今まで考えてきたように、自分の欲求を目的にしていくことは当然にできることを第1前提にしています。そして、自分自身の空腹感が、例えば目玉焼きの形で現れるでしょう。まずは先に何かもやもやとした空腹感があって、それを何でどのように満たすのかは悩むことはない、とは思わない人もいるでしょう。いつも自分の場合でも、もやもやはあって、それから目玉焼きというように頭の中で、意志で考えなければいけない人もいると思います。私は大体、そういうことはなくて、もやもやとしたものが具体的な機能をもったものと一体になっています。
しかしここでのポイントは、それしかできないかというと、そうではない、ということです。もともと商業活動はそうですが、人間は他人に対して働き掛けて、相手の欲求に対して本当にそういうものは実現できますかというような形で、コミュニケートをしながら相手の欲求を明確な形にすることができると思います。
これは本文に書きましたが、この領域は商人の仕事、つまり資本家の仕事なので、労働ではないと割り切ってしまわずに、もう少し一般的に労働過程、広く目的意識的な活動としたときに、そこまで人間の労働の範囲を広げていくことが恐らく必要だろうと考えています。むしろ、第2の相が今までに盲点になっていたけれど、目的を設定することがただ自分の欲求を目的物に変えるだけではなくて、相手のもやもやした欲求を明確な形に作り上げていくという活動が広くあります。
この活動は具体的にいうと、資本主義の下で商業労働にたくさん吸収されてしまう場合もありますが、しかし商業労働と同じ意味ではありません。別の形です。本日も出てきた共同なんとか、コミュニズムのような感じでいえば、あれには中身がいろいろとあると思いますが、生活過程をもう少し理論の中にはっきりと置けば、そういうところに広がっていきます。そして、別のスタイルの労働になることも十分にあり得ると考えます。そういう変容の可能性を含んだものとして捉えておくべきで、資本主義の下での商業労働だけにこの部分を押し込んで、それが価値を形成するかしないかの問題だけに絞り込んでしまうと、今、起こっている労働の、大きなシフトの問題が見えなくなるだろうと思います。
私が繰り返し強調しているのは片仮名のコミュニケーションです。意思疎通です。人間には非常にその能力があって、そこに今の人間の、労働の大きなウエートがかかっていることが大事だと思います。コミュニケーションは言葉と言葉、フェース・トゥ・フェースでするだけではありません。コミュニケーションは英語で意思疎通という意味と同時に、インフォメーションテクノロジーのときにICTといって、Information and Communication
Technologyで、情報通信技術の通信がコミュニケーションです。2番目の意味の通信という過程が必ずあります。意思疎通のコミュニケーションには通信が伴って、通信の部分にコンピュータを軸にしたネットワークの世界が広がってきています。意思疎通は昔ながらの形ではない意思疎通、コミュニケーションの世界が広がってきています。
ここに人間の労働の大きなコアの相が膨らんで広がっていくことも射程に入れて、今の労働の変容を考えなければいけません。表面的に見て、サービス労働が増えた、減ったようなレベルで捉えていると、全く問題の本質が見えてこないだろうと考えて、第1相をAとしています。明確に2相、3相と切り分けて設定していくことが大事だと私は思っています。
岩田 ありがとうございます。1相についてです。他人の目的を自分の目的とできるように、いろいろと相手の考えていることを理解して、こういうことですかと他人の目的を設定することが強調されているところだと思います。ただ、この質問はその先を言っています。小幡先生が前に進めたいと言っていることを前提とした上で、もう少し前に進めてみるとどうなるかという話になっています。先に言えばよかったです。
小幡 先に進めているというのは、他者の労働と呼べるものですか?
岩田 自分だけだと目的は簡単に入ってしまうので、他人の目的を自分のものにするようにしなければ、自分だけではそもそも目的意識活動にならないのではないかと言っているようです。
小幡 他人の目的ですか?
岩田 目的設定のところで、自分の目的であれば、それほど明確に意識化しなくてもいいので、他人の目的を自分の目的にしようとすると、非常に意識的な活動が必要ですが、自分の目的の場合は、ぼんやりとしていてもなぜかうまくいってしまうということです。他人に対するものでなければ、明確な目的意識的な労働にはならいのではないかという質問です。
でも、自分の目的であって、恐らく2、3の辺りはかなり労働になると思うので、それほど問題はないと思います。1だけを切り出してみると、そういう問題が起きるかもしれないという質問だと思いました。
小幡 もう一回、繰り返します。意識をどこまで強くするかは別として、私は自分でもできます。ただ、他人との関係でコミュニケーションを通してとなると、はっきりと目的意識的にしなければできないだろうと思います。そのため、2番目で強く色が出てくるという識者が出てきますが、潜在的には1人だけの世界でもあり得るという答え方です。
岩田 1人だけでも自分が本当に何をしたいのだろうかについて、確かにあるかもしれません。本当に眠いけれど、勉強をするかどうかということがあるかもしれません。
小幡 自分で論文を書いているときも大体はそうですが、もやもやしたものがあります。果たしてこれを人が読んで意味が分かるものに形づくろうという、結構、もやもやとしたものがあります。今の議論をしているような世界は一応、コミュニケーションがとれていると思いますが、論文を書く世界では、本当に他人の言おうとしていることを明確な自分のもの、あるいは第三者が分かるようなものに置き換えていくような活動を意識的にしなければならなくなります。
自分で書いているときは、何回か書いているともやもやしたものが何となく形にできますが、討論をしながら一つの結論や文章を書くことや意味のあるものを作る活動についてです。これが広い意味で人間のコミュニケーションの力が強く出てくるところだと思います。少しずれてしまっているかもしれませんが、そういうことです。もやもやとはっきりの話は、いつもしながら考えています。
岩田 ありがとうございます。もう一つだけ報告に即した重い質問があります。「相」についてです。
★質問32「について①自動運転=労働不要論に対抗する形で,拡張の方向性,第一ないし第二の相を示されていますが,小幡氏の「自然過程としての生産過程論」からすると,分業が自然過程に即して行なわれる技術=自動化が先生のお考えの本筋で,人間の技能が介在する分業=習熟効果は自動化に至る一コマにすぎないのでは? 個人的関心で言えば,労働の定量性が自然過程としての生産過程論で与えられている(過程の量的収支で生産,消費を分けられている)ために,人間労働の介在する余地が小さいのでは? ②欲求に対する目的設定が「第三者に委ねられることに伴うコミュニケーション」(前者)と「生産物を所与として編成される生産過程内のコミュニケーション」(後者)とが区別されていないように見えます。
前者は商業活動が関わることもあるが,それは商品経済に固有のこと。他方,後者は普遍的な生産過程で起きることで,目的のモノとその物量から,労働も労働手段,労働対象もその手段と化し,効率的編成を強いられ,定量性を得る。この場合の生産物が有体物か無体物(サービス)かは関係ないものの,対人サービスと生産過程外の商業労働を同じ労働生産過程論で導出してしまうと,直接的生産労働との異同が曖昧になるのでは?
岩田 小幡先生の教科書の内容(小幡『経済原論』)に関したものです。自然過程に対して労働が関わるという話をされました。先ほどの金槌の話であれば、金槌とくぎの頭がぶつかることは自然過程です。それをコントロールすることが労働のコアということで言っています。逐次制御だと思いますが、こちらのほうから中心に考えていくと、だんだんと人間労働の介在する余地が少なくなると思います。
恐らく①、②のほうを言いたいということで、①の質問からです。3つの相のうち、小幡先生の生産過程論の場合は3番の逐次制御論のほうが大きいのではないかという話だと思います。生産過程論と労働過程論の違いかもしれませんが、何か思うことがあればお願いします。
小幡 生産と労働の問題はとても簡単に垂直水平に分けてしまって、私は「労働なき生産」という考えをとっています。生産とは基本的に増えるか減るかという、モノの世界の話です。外的にさまざまなショックや何かがあっても、金槌で打っても思うようにいかないことがありますが、身体を使ってコントロールをするならば、目的実現をする方向へ外側からコントロールします。労働がなければそれ起こらないかというとそうではありません。このプロセスは自然法則が支配しています。物が落ちればあるショックがあって、熱が上がれば物が溶ける、みなが設定すれば多かれ少なかれ自動性をもっている世界だと考えます。労働時間がなぜ客観性を持つかというと、このコントロールするプロセスに客観性があって、何回かたたけば、釘が突っ込むというものです。これは念力の世界ではなくてもできます。それを間違えないように10回打てばくぎが引っ込むことに、10回打つのに1分がかかるという労働時間の客観性が出てきます。
こちら自身にあるのではなくて、ベースにあるのは物と物の世界にコントロールをかける労働量に、かけられるほうの客観性が反映されて、何時間何分という形の定量性が出てくると考えるといいということが私の立場です。①の答えはそれでいいですか。
岩田 はい。恐らく②に関係するので、そのまま②に移ります。②は2つに分けて考えていただくといいかもしれません。
まず一つは㋐「第三者に委ねられることに伴うコミュニケーション」で、そもそも何を生産するのかのところでコミュニケーションがあります。これは恐らく小幡先生が言うところの目的設定に当たるところです。
もう一つは㋑「生産物を所与として編成される生産過程内のコミュニケーション」で、生産過程を行う段階でもコミュニケーションがあるだろうという話をされていると思います。次に、商業活動と言われるところですが、㋐他人のために何かをしてあげる場合は、直感的には商業に限らないような気がします。生産では、㋑生産活動の中でもコミュニケーションがあって、それは必ず必要なものとしてあります。この部分は従来の生産過程論の中で論じられることです。そのような話をされていると思います。この二つを混ぜると良くないのではないかという話です。
小幡先生ははじめの部分㋐を強く主張されたと思います。この質問をされた方は、もう一つのコミュニケーション㋑もあるのではないか、ということが質問の始まりだと思います。難しい質問だと思います。
小幡 まず1番目の文章に書いてある話について言います。要するに今、書いた限りだと、まだ1人の主体が相手の目的物に向かって1人で働き掛ける形で書いています。協業という議論をより理論的にするとすれば、生産物は基本的には所与となったうえでの生産過程内のコミュニケーションの話です。協業論です。
本日は協業と分業の話まではとても手が届きませんでしたが、大事なポイントだと思います。どのようにして共通の目的物を共有していけるのかについて、これが今までは顔を見ないとコミュニケーションをとることができないと考えられてきましたが、コンピュータが発展してきて、今の段階で協業論はコミュニケーション論をベースにしながら、通信コミュニケーションをベースにしながらより広く考えなければいけません。理論的にも、今まで協業は付け足しで分業ばかりでしたが、協業と分業の概念的区別も明確にさせながら、独自のコミュニケーション論として確定していかなければいけない、これからの課題だと思います。本日は一切そこに入ることができませんでした。
それから2番目の、前者は商業活動が関わることもあるが、それは商品経済に固有ということは、資本主義経済のあるフェーズを考えると、大体は相手の欲求を引き出す形を付けるための、コミュニケーションを通しての活動です。そういうものについて、今まではだいたい、無言のコミュニケーションが想定されていました。分業論もそうですが、無言で物を媒介して商品を見せればいいというものです。棚に並んだものを言わぬ商品を選ぶ形で、実は商業活動をしています、そう考えていたのではないかと思います。ここに少し商業労働が出てきました。それも相手と交渉しながらコミュニケーションする、そのようなものも含まれる商業労働が少し出ました。
労働論一般をするときに、そこに絞り込んでしまうことはとても狭いと私は思います。商業活動はもちろん具体的な一つの多態化をする中で、そういう形で実装というか現実に出てくることもありますが、より多様な形で欲求を形にする活動があります。医療の問題も、私が長いこと取り組んできた教育の問題も、ある意味ではそういう活動です。恐らくそれを全て商業活動だとは言わないほうがいいです。学生の人とコミュニケーションをして、相手が言っていることを明確な形にします。説得されているのかしているのか分かりませんが、したいという広い活動をより労働論の中心部分に据えないと、今、起きていることはなかなか見えないと思います。
あるいは、そういうことを据えてみると、特に今のネットワークが発達しコンピュータが入ってきたときに、どのように大きな変容が起こってくるのかも見えないと私は思います。
岩田 ありがとうございます。本日のメインは労働過程論ですが、労働過程論の次は労働組織論(協業と分業)になります。私は労働過程論から労働組織論へつながる面白いテーマだと思いました。
あと二つ質問を紹介します。専門外の方から方法論の話が一つです。それから、今回の報告とは少し外れるかもしれませんが、抽象的人間労働の関係ということで、通常の経済原論体系や『資本論』体系の中で、本日の報告と他の場所との連関です。本日はbackdrop、書き割りと話をしていましたが、他の書き割りとの関係がどのようになっているかの質問と考えてもらえると、割と滑らかに答えてもらえるのではないかと思います。この二つはどちらが先でも結構なので、お願いします。
◆質問35「経済原論は、量子力学と古典力学のように、ある理論空間でのモデルであることを述べられています。量子力学と古典力学の間は、それぞれにおける理論空間における事象の説明をできるとともに、両者の理論空間の間の相違があきらかになっているものと思います。経済原論が経済学のひとつの理論空間であるということは、他の経済学体系との間にどのような理論空間の相違があるのかを示す必要があると思います。経済原論は唯一のモデルなのか、それとも異なる理論空間の経済学もありうるのかどうか、ということについてお考えになられていることをご教示ください。」
小幡 はい。順番に左からいきます。これは私の性格、好みもあるかもしれませんが、前半でかなりくどく方法論の問題について長く話してしまい、後半に時間を取ることができなくて申し訳ありませんでした。その前半の方法に関わることで私も興味があるので、この辺りは次に考えてみたくなります。
経済原論を長いこと取り組んできて、本当に不自由だと長いこと思っていたことは、一枚岩というか一様な原論体系という考え方がとても支配的です。先ほども少し言ったような労働過程論の中で熟練を考える場合でも、先の労働価値説のように労働時間の計算においても、熟練の問題を労働価値説としっかりと整合させなければいけない、という制約が強くかかる構造になっています。
それは最初に言ったように、マルクス経済学のどこに一番インパクト、効果があるかというと構造変化、要するに変容です。市場の構造が変わること、労働の内部にこのようなストラクチャーや構造があって、三つの相があります。それが連鎖していると作っておけば、構造変化の話がより良くできる理論・スタイルのベースがマルクス経済学にはあります。しかし、熟練労働を言うと、それと投下労働価値説でどう計算上は一致しますか?という質問になります。しかし熟練について、そのときにその質問をする人たちはもともと熟練について何も考えていません。あたかも熟練をシャベルか何かのように作って、労働者が持ってくるようなものにして、つじつま合わせのような議論ばかりをするようになっていて、これでは駄目だと思いました。
本日の最初に言ったように、そういうところを柔軟に仮想的に課題に応じて前提を明示し特徴付けるより、それぞれの理論空間を切って積み上げていく方法を使ったほうがいいのではないかと思っています。そのことについて、例えば経済学以外の理論的な学問では、それなりにできているのではないかと思っています。とはいえ、他の学問には中に入っていないので分かりませんが。この種の追求について、これまでのマルクス経済学では、熟練を言ったら、こちらがおかしくなるのではないか、労働価値説がむちゃくちゃになってしまうのではないかと感じるような、その手の議論で縛り付けることがあります。しかし恐らく量子力学をしている人に、古典力学との整合性に問題の中心があるように問う人はいないでしょう。それぞれの理論空間で説明していく方法をとります。
恐らく整数論と解析学をしたときに、離散的なものを対象にする整数論と連続的なものを対象にする解析について、数学が一致しているか一致していないかということにならないと思います。少なくとも、原論はそこの縛りが強過ぎて、せっかく構造変化の問題が見事にできるようなところにもかかわらず、自分で縛ってしまっています。そこを何とか改革したいと考えていろいろと模索しました。
唯一のモデル論は唯一ですが、その内部には理論空間がしっかりと切り分けられた唯一のモデルと考えていいと思います。経済原論は唯一のモデルなのかについてです。いくつもあるとは全く言いません。ただ、内部に異なる理論空間がしっかりと折りたたんでしまわれている、そういう全体です。
岩田 今の答えは経済原論の中にも複数の理論空間があるということで、質問は他の経済学体系との違いもあります。こちらはどうしますか。
小幡 他の経済学体系ですか。私は絶対に他の経済学体系とは混ぜません。これは信念の問題なので、あまり語っても仕方がないかもしれません。
岩田 他の経済学との相違は「マルクス経済学を組み立てる」という論文にあります。ミクロ経済学では貨幣がない、その辺りでいくつかあります。すみませんが、時間の関係でここまでとします。では、最後の質問をお願いします。
◆質問34「小幡報告の労働概念の拡張と捉え直しは、労働の二重性における抽象的人間労働の概念とどういう関係にあるのか、あるいは「社会的労働」の概念の拡張にもなっているのでしょうか?
小幡 抽象的人間労働概念はどうなるかについてです。私は抽象的人間労働論について、この辺りは全て、抽象的人間労働は要りませんと教科書に書いてしまいました。社会的労働という概念も物神性論のところを読むと、私的労働と社会的労働がマルクスのテキストの中で出てきます。物神性について考えたことがある人は分かると思いますが、私的労働はそのまま価値の実態をなすものではありません。平たく言ってしまうと、商品関係を通して社会化された社会的労働として、初めて価値につながるということです。亡くなった大谷禎之介先生がよくそういう話をしていたと思います。しかし私はそれも全て捨ててしまいました。その話は結構、長くなりますが、結論としては、関係ありません、ということです。
岩田 無理に関連付けるよりも、方法論が変わったということにしたほうが話は分かりやすいということだと思います。今日はそれ以上、話が続けられませんが、小幡先生の教科書の中に、抽象的人間労働を使わない理由が書かれています。ちょうど時間になりました。大体の質問については答えたと思います。明らかに取り上げないと言ったテーマ以外は、大体は取り上げて答えてもらったと思います。
本日の質問を受けていろいろと討論をした上で、前の二つの報告も含めて、特に今後、学生や研究者の方々に対して、今後の方向ということで提起するものがあればお願いします。
小幡 岩田さんに研究会を設定してもらいました。私が考えていたようなことと、第1報告、第2報告はそれぞれが違う角度かもしれません。ある意味で角度は違っても、方向は似たような方向性をもっていました。今までのマルクス経済学への批判というか、そういうものを積極的にベースにおいています。批判は決して悪いことではありませんし、『資本論』を批判し、宇野を批判します。何のためにするかというと、そういう批判が必要なのは、今、あるいはもう少し前からですが、現実が大きく変わってきている中で、マルクス経済学の理論がもつ融合性を生かしていくには、かなり大胆に根本のところから考え直す気概や覚悟が必要だからです。そういうことをしようと思う人がいるだけでも、私は本日の話をいろいろと聞いて面白く思いましたし、私もフォローしてみなさんについていきたいと思っています。そうは言いつつも、かなりぼろぼろになってきているので、あまり新しいことはできません。
最後にどのようなことをしていますかということです。学部の学生や大学院生を見ていると、今は東京理科大学で講義をしていますが、本日にしたような話は、実は学生に向かって話しています。なので、このページは自由にご覧ください。私は恥ずかしいことはあまり考えないので、さまざまな質問を学生に投げかけて、回答を見ています。目的とは何か、道具の話等です。『資本論』のテキストを引用して、学生にこれはどのように読みますかというようなことを言いながら、誘導しながらいろいろとしています。このようなページで学生も結構、回答があります。何枚も出ていませんが、回答が出てくるようなこのようなこともしているので見てください。
そういう意味でもう一つです。昨年に行った情報通信技術とこれからの労働という講義も駒沢大学で行いました。このようなものも別に専門家相手ではなくて、学生を相手に情報とは何か、通信とは何か、そのようなストーリーです。情報通信技術が労働に対してどのようなインパクトを与えてくるのか、そのようなことを講義で行っています。これも学部の人で興味があれば、教科書を買わなくてもこの辺りを見てもらえると何となく分かると思います。面白い問題もいろいろとあるので紹介しておきます。
本日は本当に私も長い時間で聞かせてもらって勉強になりました。みなさんと共に新しい原論を作っていきたいと思います。以上です。
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