Change in Differential and Absolute Rent as an Extension of Marx’s Theory of Ground Rent to Knowledge に対する疑問・異論への回答

 

経済理論学会でChange inDifferential and Absolute Rent as an Extension of Marx’s Theory of Ground Rentto Knowledge  を報告したところ、いくつかの疑問・異論を受けた。まず、今回はそのうちの3つに回答する

 

1.原理論のレベルでは、土地と知識を分ける必要はない。理由としてはまず商品論では有形資産と無形資産を分けない。

2.土地の本質的な不均質性と、知識の非連続性が理解できない。

3.いわゆる「土地資本」の扱いについて。灌漑設備や水力発電設備。これらは土地と知識が一つに融合して有形資産と無形資産に区別できないことを意味している。

次にこれらの疑問や異論について回答する。

 まず全体として、知識にもいろいろあるので、ここでは容易に無限に複製可能で、生産に用いられるものに限定する。

 

1.「土地と知識を分ける必要はない」について。

 本稿では変容論的アプローチを地代論に適用しようとしている。

小幡『経済原論』では、たとえば貨幣は原理論の展開では一つの形に決まらない開口部となる。原理論の展開では、商品から貨幣が発生するが、もう一段、抽象度を下げると貨幣には物品貨幣と信用貨幣(あるいは債権型貨幣)に分かれる。変容論的アプローチをとるならば、地代論、あるいは本源的自然力が開口部となって、2つあるいは何らかの数のタイプに変容する可能性自体は認められるべきである。

 もし、商品で有形と無形の区別しないことが、本源的自然力の土地と知識の区別をしないことの理由になるとすれば、貨幣において有形の物品貨幣と無形の信用貨幣の区別もしてはならないことになろう。

※そのうえで、私は商品も様々なタイプに区別すべきだという意見であり、さらに「無形資産」とは、語義的に「非・有形資産」という補集合でしかなく、あいまいな概念なので、不用意に用いるべきではないという意見である。それらについては、さしあたりここでは触れない(「変容論的アプローチ」の適用:段階論と現代資本主義論のための原理論の「開口部」についての体系的な考察)。https://researchmap.jp/circulation

 

 次に、本源的自然力を開口部にして土地と知識への変容する、ということについて、

土地と知識は本源的自然力として共通にとらえることができる。

しかし、地代の性質について大きな違いがある。その違いは本源的自然力そのもののレベルでの土地との知識の相違に根差している。

 その相違について考えるために、小幡『経済原論』の開口部の一つである絶対地代ARからは次のことがわかる。

①本源的自然力所有者の結託の有無によってARの有無が分かれる(小幡『経済原論』204)。

②同一の知識の利用は量的な制限がない(小幡『経済原論』205問題132。解説は341)。

 ARには最劣等地における土地所有者たちによる結託が必要だが、その結託は困難だと大内や日高らは認めてきた。つまり最劣等のランクの複数の区画のうち、借りられていない区画の所有者たちが自身の区画の貸出しを拒んで地代を選らないことを甘受することによって、借りられている土地の所有者たちがARを得ることができる。しかし借りられていない土地所有者たちが借りてもらえるように地代に引き下げ競争をすれば、ARはわずかになる(日高『原論』208209)。この点について小幡『経済原論』は結託の有無がARの有無という変容をもたらす開口部とした(上記①)。たしかに農地のような外的自然はそれぞれに異なっており、同一ランクの土地の多数の所有者たちが日高のいうような関係で結託するのは困難だ。

 しかし、知識の場合、同一の知識は無限に拡張可能である(上記②)。同一の知識の所有者は一人だから結託は自明である。このようにARにおける結託の問題を考えようとすれば、本源的自然力における土地と知識の違いを考えなければならない。つまり、ARにおける開口部は結託の有無というよりも、結託の可能にする、あるいは不可能にする本源的自然力の性質の違いとしてとらえ返さなければならない。

 

2.「土地の本質的な不均質性と、知識の非連続性」について。

 本源的自然力が本質的に不均質であることは、本源的自然力の定義の中に含まれている(小幡『経済原論』201)。問題は土地と知識で不均質の意味が異なることである。土地は各区画においてそれぞれ不均質である。日高・大内、小幡らでは、同一のランクの多数の区画と、他のランクの非連続的な違いを前提しているが、それは無理であることは、身近な不動産取引や住居の売買や賃貸の価格を見ればわかる。農地ではたとえば水田について「上田」「中田」「下田」と区分して賃借料情報に示されることもあるが、それは目安であって、様々な土地は様々な生産性で様々な賃貸料がある。

 

 知識では、同一の知識が同時に多数の経済主体によって利用できる。逆に言えば一つの知識の所有者が、その知識の利用について、多数の経済主体を支配できる。この性質は資本主義経済に独占の意味で大きな影響がある。この違いを原理論のレベルでとらえることが本稿の課題である。

 他方で知識には不均質性もある。異なる複数の知識の間には違いがある。「異なる」のだから「違う」のは当たり前、という問題ではない。

 まず、知的所有権で保護されておらず誰もが自由に利用できる知識について考えてみよう。この場合、人々が微小に異なるさまざまな知識を制限なく創出し、利用できる。そうすると同一部門内では微小な差異で多数の利用可能な生産条件が存在しうる。どれが優等かが明確にわかれば生産条件が単に地になるが、他の部門の影響も含めて優等性が明確にならなければ知識でも本質的に不均質の状況が生じうる。これは市場価値論の領域である。

 しかし地代論を知識に適用する場合は、知的所有権で保護されることが前提である。知的所有権が認められるためには他の既知の知識とは異なる「新規性novelty」や「進歩性inventive step」(アメリカでは「非自明性nonobviousness)が必要である。こうして、知的所有権で新たに保護され地代論の対象となる知識は、他の既存の知識とは非連続的に異なることがわかる。ただし、厳密に言えば、知識の内容として非連続的に異なっていても、効率や生産性では微小な差異にとどまれば、土地と同じ連続的な不均質性も生じうる。しかし、現実問題としては、新たな知識が特許として保護されるには、効果や生産性が大きく向上することが前提となろう。(高林龍『標準 特許法 第6版』2017年、58頁)

 

3.いわゆる「土地資本」の扱いについて。

 これは宇野学派の地代論では、恒久的土地改良と、土地に対する固定資本投下との概念的な区別として明確化されている。先行研究では、日高『地代論研究』184、大内『原論・下』610611、小幡『経済原論』209211にある。たとえば日高では「農場建設によって代表される土地資本はそれ自身が価値物であるが、整地によって代表される恒久的改良のおこなわれた土地は価値物ではない。」「恒久的土地改良は再生産からはみだした、再生産の条件を作るものにほかならない。」(日高『地代論研究』184

 灌漑設備や水力発電は、摩耗して更新されるのであれば固定資本であり、更新不要であれば本源的自然力である。その区別の仕方は、小幡『経済原論』201202頁の本源的自然力の定義を参照すればわかる。

 ただし、こうした原理論的な区分に対しては、農業経済学の立場から椎名重明が次のように批判している「なお、日高氏のように「恒久的改良によってつくられるものは再生産を必要とする固定資本ではないからむろん土地資本ではなく、したがって価値移転にもとづく償却部分は存在しない」(日高『地代論研究』180-181)などというのはまったくおかしいのであって、永続的改良といっても物資的にはもちろん道徳的にも摩損するのであり(そのかぎりでは永久的改良などというものはない)償却されなければならない資本であることに違いはない」(椎名『近代的土地所有』13頁)

 しかし恒久的改良の陳腐化と、固定資本の耐久期間による摩耗は異なる概念である。陳腐化は、そのものは利用できるが、社会状況の変化によって無効になった状態である。これは摩耗しない知識が、新たなより効率的な知識によって無効になるのと同じである。恒久的改良は本源的自然力の改善であり、知識の場合も同様に陳腐化はあるが、摩耗はない。

 この問題は原理論研究者と、現状分析研究者や実務家と派かなり強く対立する。現状分析研究者や実務家は、土地の恒久的改良や新たな知識の開発を投資や生産という。しかし原理論研究者は生産の概念を再生産の概念が適用できるものに限定し、土地の恒久的改良や新たな知識の開発を投資や生産とは区別する。本稿では原理論の観点から論じている。

 

「同一のランクの多数の区画」の想定の源。

 土地が本質的な不均質ということがなぜわからないのか、ということの方がわからなかった。おそらく、これはマルクス『資本論』第338章の差額地代論の初めにある落流の例の拡張にあるのだろう。日高が明確にし、小幡らにも引き継がれている「同一のランクの多数の区画」の想定は、この落流の例の拡張によるのだろう。しかし、落流の例を正確に理解する必要がある。

 たしかに落流では、すべての落流がが同じ生産性になっており、均質といえる。

 しかし落流も自然力であり、水量や速度による水勢は本質的に異なる。それでも同じ生産性になるのは、水流を受け止める装置が一定の水勢のみを受容し、一定の大きさの動力のみを作業機に伝達するからである。つまり、様々な落流を xi 、落流の水勢を f(xi) 、抽出される動力をF(xi)とすると、落流の例では次のように表現することができる。

 f(xi) ≧ a のとき、F(xi) = A  

    f(xi) < a のとき、F(xi) = 0  

 続く39章以降の穀物栽培の例については、地力(または豊度)を、収穫量を とすると次のように表現できる。

f(xi) < f(xj) のとき、F(xi) < F(xj)   

ただし、地力 f(xi) は直接には観測不能なので、収穫量 F(xi)  から推測される。

 ここでは土地の地力の差異が、収穫量において均質化されず、そのまま収穫量の差異として現れる。

 落流の例のように不均質なものが機械装置によって均質化する例は、一次産品の原材料などに多数、見られる。例えば、第38章で落流と対比される蒸気機関に石炭が用いられる場合を考えてみる。石炭は石炭化度の違いによって、無煙炭、瀝青炭、亜瀝青炭、褐炭、亜炭、泥炭に分類されるが、それぞれの区分内では同質で異なる区分の間に非連続的な差異があるわけではない。産地の違いによって偏りはあろうが、差異は連続的で、本質的に不均質である。燃焼による熱量も異なる。それでも一定の出力があるとすれば、機械装置が一定の熱量を受容し、一定の大きさの出力として抽出するからである。

 次に問題になるのは、落流の例と穀物栽培の例のどちらが本源的自然力のタイプの典型となるべきか、ということである。落流の例は機械装置による均質化作用を受けていることを踏まえれば、外的自然からの制約をより強く受けるのは穀物栽培の例になる。したがって、外的自然からの制約を検討対象とする地代論では、穀物栽培の例の方が適切である。逆に機械装置による均質化作用は、技術的確定性を前提とする生産価格論からの続きとして、適切になる。その意味で、落流の例は生産価格論から地代論への移行として適切な位置を占めている。

 この点で河西勝氏は、自然をそのまま地代論の対象とするのではなく、固定資本で受容してこそ利用できるとして、固定資本の役割を強調している。

 「工業であれ、鉱業・農業その他であれ、生産手段としては、固定資本と別に土地や自然力などが、存在するはずがない。固定資本とは、土地を生産手段に作り変えるものであり、固定資本によってはじめて土地は、一定の労働生産力を可能にする生産手段として利用しうるものになる」(河西勝[2009]『企業の本質:宇野原論の抜本的改正』147

「「落流」の利用などは、工場の蒸気機関による上記力の利用と同様に、それ相当の固定資本形成、たとえば貯水池の築造による安定的な「落流の過去や、相当規模の水車小屋の建設によっていくらでも可能になる。」(148

同様の内容は河西勝[2001]「マルクス経済学の自省と転換」『北海学園大学経済論集』48(34)42頁にもある

 しかし河西氏の場合は、自然力の差異は固定資本の問題へと転換されるが、逆に今度は個々の固定資本がそれぞれ異なるとなっている。つまり、通常の原理論は固定資本を流動資本に寄せて固定資本を均質と考えるのに対して、河西氏は固定資本を土地の側に寄せて個々の固定資本は不均質と考える。

 それに合わせて、「資本二元論」として、生産過程が流動資本である通常の資本循環(つまり貨幣-流動資本-商品資本-貨幣)と、それとは区別される循環として、土地を含む固定資資本の循環という二つの循環を提唱する。固定資本は生産性において不均質であり、それぞれの差からDRが生じる。最劣等の固定資本の用益の価格が、地代の観点からARであり、同時に固定資本の観点からは平均利潤になる。

 河西氏自身は宇野理論への批判からさらにさかのぼってマルクスへの批判と新古典派ワルラス擁護になっている。宇野批判をするよりも新古典派理論で徹底した方がよい気がするが、話がそれるので、ここまでにしておく。


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