絶対地代論における日高説と小幡説における想定の根本的な違い

 



日高説

日高説では絶対地代(AR)は、複数の区画が存在する最劣等地の所有者たちが結託して、タダでは貸さない、とARを要求するものだ。

 

だとえば、日高[1962]『地代論研究』では「「土地所有者の第四級地(調整的となっている最劣等地―引用者による注記)が多くの経営単位に分かれていながら、しかも只一人の土地所有に独占されているという特別な状態が必要である。」「しかし、そういう特別な状態でさえなければ、絶対地代はきわめて小さいものだといって間違いないであろう。」424

 只一人というのは自然人で一人でなくとも、複数の人間が結託しても同じであろう。そこで小幡『経済原論』は絶対地代のところを開口部として、結託のある場合と、結託がなく地代の引き下げ競争になる場合の二つのタイプの変容を説いた。

 もし、日高の想定を、結託の有無による違いとして表現すれば次のようになるだろう。

1 日高の想定

 

差額地代と絶対地代

社会的需要 優等条件の供給能力

劣等地

優等地

劣等地の所有者たちの

結託

1.絶対地代

3.差額地代

競争

2.無地代

4.差額地代

 

つまり結託は最劣等地の所有たちの行動であり、ARは結託した最劣等地の所有者たちが得る。

しかし、小幡の想定は日高とは大きく異なる。

小幡説

まず、小幡『経済原論』204頁に次の図がある。

 表2 小幡の想定 

差額地代と絶対地代

社会的需要 優等条件の供給能力

社会的需要 優等条件の供給能力

土地所有者間の結託

1.差額地代

3.絶対地代

土地所有者間の競争

2.差額地代

4.無地代

 

 落流と蒸気機関の想定は、小幡『経済原論』も、マルクス『資本論』や日高と同じで、制限された落流による生産が優等な生産条件で、制限されない蒸気機関による生産条件が劣等とする。

 日高の例では表2の列の左側の「社会的需要 優等条件の供給能力」だけを論じており、結託するか競争するかは最劣等地の複数の区画所有者たちの行動を指していた。

 しかし小幡の場合はそうではなく、結託か競争か、というのは優等な生産条件の所有者たちの行動選択であり、ARを得るとすればそれは優等な生産条件の所有者たちである。つまり、表2はすべて優等な生産条件の所有者たちについてである。日高説とは大きく異なる。

 表2に即して説明すると、まず、左の列「社会的需要 優等条件の供給能力」はマルクスや日高の説明と同じ場合であり、優等である落流の所有者たちの行動にかかわらず、劣等な蒸気機関による生産が調整的となり、落流の所有者たちには差額地代(DR)が生じる。つまりセル1もセル2も優等条件の所有者にとっては同じことである。マルクスも日高も優等な条件の所有者たちに行動は問題にしていない。

 他方、「社会的需要 優等条件の供給能力」の場合はマルクスや日高が想定しないケースである。この場合は、落流の所有者たちの行動によって地代の形態が変わる。落流という優等な条件ですべてが生産され、しかも落流の一部は利用されない。ここで地代の引き下げ競争が起きると地代が生じない。しかし落流の所有者たちが結託して地代を要求すればARが生じる。表2で言えば、競争ではセル4だが、結託できればセル3になる。ARの上限は日高説と同じで、蒸気機関による場合との生産性の差に基づく。

 このように小幡『経済原論』が想定しているのは、落流の所有者たちの結託は、利用を希望する産業資本にARを要求する、ということである。

 ここまでが小幡『経済原論』の説明である。

 

 小幡説の拡張

 しかし、もう少し話を進めることもできる。小幡『経済原論』では論じていないが、落流の所有者たちが貸し出される落流の量を制限して「社会的需要 優等条件の供給能力」にできれば、セル1になる。Ehara[2023]はこのケースを論じているように見える。つまり優等な生産条件で結託して量的な利用制限できれば、劣等な条件が稼働し、優等な条件にとってはセル1になり、量的な制限ができなけばセル4になる。

 この量的な制限のケースは知的所有権の場合は重要になる。

 小幡『経済原論』の想定では、知的所有権の場合、量的な制限は想定せず、ARを払えばどの産業資本にも利用可能になる。つまり知識そのものは同じものが無限に拡張可能なので、表2で言えば右側の「社会的需要 優等条件の供給能力」の列しか存在しない(小幡『経済原論』205頁の問題132)。

 Ehara[2023]のように量的に制限するケースを入れると、話は変わってきて、次の二つの場合がありうる(以前の記事参照)。一つは劣等な条件が稼働する場合で、先に述べたようにセル1になる場合である。しかし、他に生産方法がなく、しかも「社会的需要 優等条件の供給能力」の状態が維持されれ続けれれば、独占地代になる。ただし、独占地代は「価値・価格機構による生産量の調整がもはや不可能となったところに成立する地代形態として、価値法則の世界としての地代論においては成立しえないという意味で、地代の正常な形態たりえない」(寺出[1979] 138)。となる。

(※なお以前の記事では、Ehara説が大内・日高説と異なる、と書いた。それはその通りだが、正確には、すでに小幡説の段階で大内・日高説と異なっており、Ehara説は小幡説の変形といえそうである。

 参考文献

Ehara, Kei (2023): Reconstructing Marxian Theory of Ground Rent: Based on Japanese Development of Marxian Political Economy, Capitalism Nature Socialism 

 寺出道雄1979]「地代の正常な形態について『三田学会雑誌』72(2)

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