資本主義における知識を地代論と流通費用から考える

 

経済学原理論の中の生産論は有体物の投入産出の関係が基礎である。しかし現在の資本主義で拡大している知識の領域では投入・産出の安定的な関係はない。また売買関係も、販売して有体物を引き渡して終わりではなく、一定期間の利用権の売買という行為が重要になる。一定期間の利用権の売買とは賃貸借を言い換えたものでもある。

 小幡『経済原論』は地代論を技術や知識に拡張して、本源的自然力の概念で把握している。このように地代論を土地や農業に限らず、知識や技術に拡張すると、資本主義の現状分析にとって非常に大きな可能性が広がる。まだその可能性は十分に活かされているとは言えないが、今後、原理論をベースにして現状分析は大きく発展していくだろう。

ただし、理論的には、地代論は確定的な生産過程に適用されるもので、不確定な流通過程に作用する種類の知識は地代論ではとらえられない。生産技術における知識は地代論でとらえられる一方で、販売データや著作権や商標のようなタイプの知識は流通費用としてとらえる必要がある。

以下、地代論と本源的自然力の基本的な内容は小幡『経済原論』による。その発展させた内容は授業資料「現代資本主義論」としてこのブログで公開している。また昨年(2020年)11月の「資本主義と知識」についての研究会の内容も含む。

知識をマルクス経済学でどのようにとらえるか定説はない。さらに、知識といっても様々なので今後原理論と現状分析の両面で議論が活発になることを期待する。

 地代論の基礎

はじめに地代の基礎をまとめる。

地代とは、再生産不可能な生産条件である本源的自然力の較差から生じる超過利潤を生産条件の所有者が核とするものである。本来は農業で用いられる用語だが、農業以外の産業にも適用可能である。

「土地」を一般化すれば、「本源的自然力」という概念になる。その定義は「生産に用いられるが、再生産されない生産条件」のことである。その特徴は

(1)何回も用いられても劣化しない。

(2)再生産されず、「発見」される存在。均質化しない。 

再生産可能な生産条件は優等のものにそろう傾向があるが、再生産不可能ならば較差が残る。

もともとは、①外的自然のことだった。業における耕地や、自然現象などを指す。通常は不均質である。

現在の原理論では、②知識も含む。制度と権力で利用制限されれば不均質になる。利用制限として特許のような知的所有権などがある。

さらに発展させて考えれば、③生産ではなく、流通過程に作用し純利潤率に較差をもたらす特別な条件も含まれる。これは「商業地代」も含む。

本源的自然力という語には、ⓐ生産に寄与する生産条件という意味と、ⓑ不均質で制限され較差が生じる、という2つの意味がある。本源的自然力は必ず地代をもたらすわけではない。次の差額地代で説明する。

差額地代の例解。同一種の生産物が複数の生産条件で生産されるとする。生産条件の優劣の違いによって「優」「並」「劣」とする。ここで優劣とは、商品の品質や性能ではなく、同じモノを生産するのに要する費用の違いである。

 これらの生産条件のうち、どれが市場価値を決めるか?

最も適切な答えは、設問自体をちゃぶ台返しして、「優の生産条件が拡大して、すべて優の条件で生産される」である。


地代が出るには条件が必要で、優の生産条件の利用に限りがあり、優での生産では社会的需要量が満たせず、優と並の生産条件の一部が利用されて社会的需要が満たせば、並の生産条件でも資本にとって平均的利潤が得られる価格水準が市場価値となる。



優の生産条件では市場価値よりも低い価格でも平均利潤が得られるので、その差額が(上記の図の緑の部分)が商品1単位当たりの超過利潤となり、生産条件の所有者に地代として引き渡される。そこで生産を行う資本は平均利潤のみを得る。

(※ただし、厳密に考えると、この部門の市場価値が変化すれば、生産価格体系の相互規定的な変化に伴って費用価格も変化して地代の額は変化する可能性がある。しかしややこしくなるだけなのでここではふれない)

 

地代の種類

「差額地代」:同種の商品が複数の生産条件の資本によって、社会的な需要を満たすに足りるだけの生産が行われている場合、その中で最劣等の生産条件が市場価値を規定。より優等な生産条件では差額地代を得る。

「絶対地代」:市場価値を決める生産条件における本源的自然力の所有者が結託して利用制限を行うことで生じる地代のこと。その額は、潜在的に利用可能な劣等生産条件によって上限がつく。

「独占地代」:特定の生産条件でしか生産されず、これらに代わる生産条件が存在しない商品。地代は支払い能力のある主体の需要によってきまる。ただしこの概念は原理論では説明できない欠陥部分になる。

そうしないためには、類似の生産物を生産する場合に潜在的に利用可能な、より劣等な生産条件によって上限が画される、絶対時代の特別な形としなければならない。

この問題は現状分析からアプローチすると、「プロセスイノベーション」と「プロダクトイノベーション」のような問題になる。つまり、地代論での優等な生産条件は、同種大量に存在する商品を安く作る、いわゆるプロセスイノベーションに関するものだが、プロダクトイノベーションの場合は従来の商品とは異なる種類の商品が生産され販売される。しかし、プロダクトイノベーションを独占地代に解消するわけにはいかない。


本源的自然力の改善(恒久的土地改良)

当地改良や新技術の発明が半永久的に利用可能で劣化せず更新されない場合、土地の場合は恒久的土地改良、一般化すれば本源的自然力の改善となる。その効果が半永久的に持続し、減価償却もされない。消耗する土地改良は固定資本になる。また、もっと優等な土地や技術が導入されると、以前の改善が優等ではなくなって利用されなくなることともあるが、それは「劣化」ではなく「陳腐化」あるいは「無効化」である。

本源的自然力は不均質で多様であり、その改善に必要な労力と資材、そしてその効果も不均質で多様である。そのため資本の法則的な運動には相いれず、原理論では、資本以外の主体(土地所有者など)によって行われる。そして、競争による一般的利潤率の形成には関与しない

 

本源的自然力の改善の主体

 小幡説では本源的自然力の改善の主体は資本ではなく、その自然力の所有者とされる。それが資本ではないのは、改善に支出された費用は減価償却される性質ではないので、姿態変換をしないので資本ではない。改良した生産条件を貸し続ける存在だから、のようだ。

 知識における発明や発見といった本源的自然力の改善と、知識の貸出による地代の取得を行う主体を、資本とは異なる「土地所有者」というべき「本源的自然力の所有者」として設定すると現状分析にもいろいろと有益な効果を導き出せる。

 たとえば、現代のIT企業と資本と、非資本としての「土地所有者」の二面的な存在とすることができる。同時に、資本は本源的自然力の改善を外に押し出す傾向もあるので、その観点からみると、未完成の発明はベンチャービジネスとして資本の外に存在し、発明が完成すると株式公開やM&Aを通じて資本の中に取り込まれることになる。ここで【投下資本―利潤】という利潤率計算が困難なベンチャービジネスと、【投下資本―利潤】の計算が要求される資本との区別を設定できる。

 会計制度でも、企業設立で物的要素を購入すれば、貸借対照表の左に物的要素が資産計上され、右側には資本が記入される。しかし最初の活動で支出のすべてが発明のためであれば、貸借対照表では資産も資本もない。これを企業として認識するには1円資本やゼロ円資本になる(武田隆二[2008]『会計学一般教程』)。

 こうした現象を「分析基準としての原理論」のアプローチで考察すれば、論じることは無数に現れる。

 

流通過程における知識の問題

 次は流通過程における知識の問題だ。資本主義経済における市場は、同種の商品が大量に存在することを前提とする。原理論では、「同種」とは「ラベルを剥がしたら同じ」という言い方をする。同じモノの生産コストの違いをもたらす知識や技術は地代論で説明できる。しかし同種のモノを包む異なるラベルは流通過程の問題になる。

本当にラベルの違いだけなら話は簡単だが、「ラベルの違い」を突き詰めていけば本やCDなどの内容・コンテンツの違いに至る。コンテンツの違いは販売促進のための流通費用になる。そう考えるのは、販売する本体は本やCDといった部分で、その内容・コンテンツは無期限で借りることになる(この…は小幡『経済原論』問題50解答を参照)。

この問題は授業でもよく取り上げるが、問い:「音楽CDを買った場合、音楽を買っているのか?」 正解は「CDを媒介にして、CDが破損するまでの期間で、音楽を聴く権利を買っている」

現在は、内容・コンテンツの利用方法は、一定期間、利用し放題のサブスクリプション型のタイプが増えているが、これは占有が移転する有体物の売買とは異なり、賃貸借(原理論でよくやる言い方で一定期間の利用権の売買)となる。特にコンテンツが多数のサブションスクリプションであれば、売買するのは内容・コンテンツが入った「枠」としての一定期間(ひと1月など)であり、その「枠」の中で利用できる内容やコンテンツは、「枠」を販売するための流通費用となる。もちろん内容・コンテンツそのものを販売しているわけではないし、内容・コンテンツから得られる感動を売買するわけではない。

ただしこの内容・コンテンツが流通費用で、販売するものは「枠」という考え方は、昨年(2020年)12月の研究会では反対意見が多数出て紛糾した。反対意見は「内容・コンテンツは売買する商品のメインの部分で、流通費用とは思えない」というものだ。今後、検討を深めていかなければならないが、たとえば次のような順番で考えたらどうだろうか。

①内容・コンテンツといった無体物がが、本やCDといった有体物と不可分に一体化している状態。

②料金の支払いがペイパービューなどのように、特定の内容・コンテンツの利用に限定されている状態。

③多数の内容・コンテンツが揃ったサブスクリプションの状態

このように考えていけば、①では無体物の知識というタイプが不可分の形に結びついているのに対して、②、③となるにつれて、売買されるものと内容・コンテンツとの結びつきが緩んでくる。そして③では販売しているのは「枠」で中身は可変、と考えるのが自然の成り行きだろう。

これで、当時の研究会の参加者が納得するとも思えないが、話を前に進める。

内容・コンテンツが流通費用だとすれば、次に売買される商品の本体を成す「枠」の同種大量性と内在的価値である。これは複数の売り手の提示する「枠」にだいたいの「相場の価格」があることがわかればよいだろう。利用できる内容・コンテンツの量によってランクがあるが、それぞれ相場の価格がありそうに見えるが、どうだろうか。

さらにテーマは続く。いくつか列挙すると、

amazonなどのプラットフォームは商業地代の概念となろう。商業地代の概念はマルクス『資本論』第3部第18章末尾にあるが、その後、理論的進展は乏しいようである。

会計上の「無形資産」の概念の曖昧さの問題がある。「無形intagible」は「in非」と「tangible有体物」からなり、直訳すると非・有体物となる。実際、会計上の「無形資産」には本物の無体物である知的所有権の他に、非金銭債権など雑多のモノが混ざっている。知識としての無体物の概念は以下の文献が興味深い。

Drahos, Peter [1996] A Philosophy of Intellectual Property, Routledge(山根 崇邦 [] (1)-(8)、『知的財産法政策学研究』34,35,36,37,38,39,42,43

有体物の場合は所有の対象は物的に限定されるが、無体物の所有の対象は限定が困難だ。そのため、特許であれば内容を公開する必要がある。しかしどこまで所有の対象かは自明ではないので、場合によっては過度の独占に至る。これは原理論ではマルクスの『経済学批判要綱』の機械と固定資本に触れた個所が有名だ。「社会的頭脳の一般的生産諸力である知識と熟練の蓄積は、このようにして労働に対立して資本に吸収され…」(資本論草稿集②475頁)

有体物とは異なる無体物の特徴、有体物と無体物の関係、知識と知的所有権をめぐる段階論の骨子はすでに授業資料の中にある。しかし、資本主義における知識はさらにさまざまな角度から検討する必要がある。

今後、機会があればブログの記事でも紹介する。




コメント

人気の投稿