吉田暁本ガイド④ Gurley-Shaw「間接証券」批判
今回は少しマニアックだが、吉田暁『決済システムと銀行・中央銀行 』 202頁の Gurley-Shaw(G-S理論)の間接証券批判についてである。
現在は外生的な貨幣供給理論、すなわち貨幣になるものが外材的に存在し、それを預けることによって預金が発生するという考え方が主流だが、20世紀の前半までは、内生的な貨幣供給理論、つまり、銀行による与信によって、銀行の債務としての貨幣が発行されるという内生的な貨幣供給理論が主流だった。外生的貨幣供給理論への転換は1960年代に、G-Sの理論から始まった。その背景には非銀行金融機関の金融仲介の増加があった。
G-S理論について先の199頁で吉田は次のように批判している。「資金余剰主体はあらかじめ、「資金」を保有していることが前提とされているのである。この「資金」は一体何なのか、それはどこからくるのかはブラックボックスの中である」(199頁) この批判は外生論に対するいつもの批判である。
202頁の下から6行目~5行目の「間接金融資産の創出という視点だけでみることの違いは消えてしまう」とはどういう意味か? 大学院の授業で質問があった。
まず前提として202頁の最終段落の冒頭にある、銀行の貸出と非銀行金融機関の貸出との比較を図解して説明する。
まず、銀行による貸出は信用貨幣としての預金の創出となる。
図1
次に、非銀行金融機関の場合は、あらかじめどこかにある「現金」の又貸しになる。
図2
次に、預金も金融債も「間接証券」とみると
図3
両者は同じような形になる。つまり「間接金融資産の創出という視点だけで見るとこの違いは消えてしまう」ということになる。
なお、G-S理論では「間接証券」とは銀行が発行する債務で、「本源的証券」は産業企業や政府など非金融経済主体が発行する債務のことを言う。ただし、吉田の内生的貨幣供給理論では、決済性預金は「間接証券」ではなく、信用貨幣と考えるべき、である。
ところで、上の図3の段階では、預金は貨幣だが、金融債は貨幣ではない、と正しく見抜くこともできる。しかし、貨幣とは現金のことだと強い信念があれば、預金も金融債も現金が転換したものとして同じにみえる。次の2つの図では銀行の発行する預金通貨も非銀行金融機関が発行する金融債も同じ「間接証券」して現金で買うものと観念される。下の図4と図5では同じ構造に見える。もちろん同じ構図のように見ることを吉田が批判している。
図4
ここでの銀行の負債の「間接証券」は決済性の預金が想定されている。そしてこの間接証券自身も預金通貨落として貨幣だから、「預金をも現金によって購入された」とおかしな言い方になる(202頁下から5行目~4行目)。非銀行金融機関の場合は次のようになる。
図5
こうして「そしてその視点は預金をも現金によって購入されたものとみることで完結する」
念のため付記すると、この記事はGurley-Shaw理論の「間接証券」「本源的証券」を解説しているのではなく、その理論に対する吉田による批判を解説している。
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