商業資本の「大規模化」と段階論について
19世紀末の固定資本の巨大化と、20世紀末の商業資本の「大規模化」
宇野弘蔵の段階論では自由主義段階から19世紀末の帝国主義段階への移行では「固定資本の巨大化」が重視される。固定資本の巨大化は、20世紀の組織化、あるいは福祉国家を一つの段階論ととらえる加藤栄一などでも重視される。
従来の段階論では生産や対外経済政策が中心だったが、岩田[2020]で葉商業機構における段階論を論じた。固定資本の巨大化を基礎とした組織化の時代が終わるのは1980年代からの新自由主義の時代である。このときに商業機構の段階的変化の中心になるのは「商業資本の大規模化」である。
商業資本の「大規模化」の意味
商業資本の大規模はこれまで商業経済論が論じているように、個別店舗の大規模化と、一つ一つの店舗が小さかったとしても小売店舗のチェーンの拡大による大規模化の二つの方向で考えることができる。しかしこうした「大規模化」では1980年代以降の段階をとらえることはできない。実際、個別店舗の大規模化は19世紀初頭の自由主義の時代から既に始まっている。産業革命による衣料品の大量生産を基にして、不特定多数の客への定価での現金販売によって大量の販売が可能となった。こうした大規模店は1852年パリの百貨店の基礎となったボン・マルシェが有名だが、それ以前、19世紀前半にもイギリスで店舗の大規模化(店員数百人の「モンスター・ショップ」など)が始まっていた。チェーン店による大規模化はアメリカのA&Pが有名で、1920年代に爆発的に増えた。また、アメリカでは19世紀末からの通信販売によるシアーズも大規模であった。しかしこれらは1980年代からの大規模化とは質的に異なる。ここで1980年代からの新自由主義を考慮に入れたうえで商業資本の「大規模化」を概念的に定義づけてみる。何と比べて「大」か? 重要なのは次の二つである。
㋐産業資本の生産量に対して買取量が「大」
㋑小売商業資本間で、品揃えに差がつかなくなるほど「大」
まず㋐については、少量ずつ多数の商品を仕入れて大量の商品を販売するように「大規模化」しても、個別の商品について産業資本との関係では「小」にとどまる。商業資本が狭い分野に専門化して大規模化した方が産業資本に対して「大」になりやすい。このような「大」となることで、これまで原理論の商業資本論で論じられてきたような継続取引や大量買取の効果が生じる。新自由主義の出発点に引き付けて言えば、多数の商品種を取り扱う総合スーパーに対して、家電や玩具、衣料など特定の分野の専門家した「カテゴリーキラー」という量販店の拡大を意味する。合計量が「大」なのではなく、商品の単品レベルで「大」となる必要があり、そのためには、単品レベルで全店舗的に販売を管理し、チェーン店の本部で一括して大量の仕入れに転化することで初めて「大」となる。そのためには技術上の前提が必要となる。
次に㋑については、店舗が大規模化し、品揃えが非常に多くなると、他の大規模店との差異が減少する。つまり小さな店舗であれば品揃えの違いを生み出すことができるが、極端に抽象的に論じれば、すべての商品が販売棚に並ぶと、二つ以上の大規模店は全く同じ品揃えとなる。そうすると大規模商業資本間の競争は価格を引き下げるか、あるいは他の大規模店にはない独自の商品の種類を取り扱うしかなくなる。独自の商品は、商業経済論で「競争的使用価値」と言われてきたものである。商品価格の引き下げや、独自の商品は、商業資本による生産過程への関与を深めざるを得ない。
このように商業資本の大規模化は㋐㋑いずれにしても、生産過程に対して関与を深めざるを得ないということが商業資本の大規模化による量の質への転化である。
しかし生産過程に関与するというだけではシアーズもすでに組織化の時代から工場を直営したり、産業資本から継続・大量買取の契約を結んだりしていた。また日本でもダイエーが1960年代からプライベートブランドで試みたことである。しかし生産過程への関与の深化は、取扱う商品の種類と量を頻繁に変更できると言う商業資本の本来の身上である「変わり身のはやさ」を拘束する。この拘束が進むと、本来、商業資本が対抗していた、巨大産業資本(寡占メーカー)による流通系列化と同じものになる。1980年代以降の小売商業による生産過程への関与とは、このように既存の生産過程をそのままに取り込むことではない。そうではなく、不断に変動する小売の状況に合わせて、生産過程を不断に変更させるという意味である。これは前回の記事の変容βにおいて、⑤とは異なる⑥になることを意味する。これが製版統合といわれてものである。
製販統合と新自由主義
⑤の流通系列化では、生産過程は生産の効率性が優先され、一定のペースで大量に継続的に生産された。なお現在の原理論の基本はこの想定に依っている。製版統合の下では不断に変動する最終消費の購買に合わせて生産物の種類と量が不断に変更される。といっても全く異なる種類の商品が生産されるわけではなく。競争的使用価値のレベルでの変化である。種類と量の変化のためには、連続的な生産過程を複数に分割して、途中で半製品のところでとどめておき、最終購買の状況に合わせて生産物の種類と量を変更する。これは生産の効率性を下げるという点では不合理であるが、多品種少量の商品に合わせるという点では合理的である。組織化の時代は巨大な固定資本を起点とし、流通機構を次々と統制する組織を拡大させていくものだったが、逆に製版統合は不断に変動する市場の動向に合わせて生産の在り方を不断に変更させ、従来の組織を解体していく新自由主義に適合的なものとなる。
「多品種少量」と「大量」
ここで「多品種少量」を単純に「少量」とすることはできない。本当に少量であれば生産過程に対して商業資本は影響力を行使できない。「少量」を「大」に転化することが必要となる。具体的には、
ⓐ個々の販売では「少量」であっても全店舗の合計で大量にまとめ上げる大きな規模、
ⓑ大量生産ベースで多品種少量生産を可能にする生産過程の変更の技術、
ⓒ単品レベルでの管理
である。ここでⓐとⓒは自明であろう。ⓑは商品の基本形を大量生産して、それにオプションを加える形で、多品種化することである。これも生産効率の面からは不合理だが、在庫を生まない販売としては合理的となる。
以上の考察から商業資本の「大規模化」が生産過程の再編も意味し、段階論の一つの契機となることがわかる。これ以外にも、すでに挙げた単品管理を可能にする技術や、大規模小売商業の規制から容認・推進といった政策上の変化など、付随する様々な論点がある。しかしいずれにしても、商業資本の「大規模化」という一見、量的にすぎない変化が、よく考えてみると質的な、大きな変化をもたらすことを重視する必要がある。
以上、商業資本の「大規模化」を概念的に把握して段階論との連関を論じた。もちろんこれは前回の記事の商業資本の変容論的アプローチの一環をなすとともに、段階論の一部をなすことは言うまでもない。
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