スキップしてメイン コンテンツに移動

注目

Redefining the Commodity Theory of Money: From the Viewpoint of the Recent Unoist Approach and Japanese Debates on Credit Money

  1. Introduction Marx introduced money as the form through which commodities express their own value. Traditional Marxist economics assumes that money was gold, and after the suspension of convertibility, money became state fiat money. In contrast, unlike traditional Marxism , Unoists in Japan reconstruct Marx’s Capital logically in many respects , beyond textual interpretation . Regarding credit theory, Unoists emphasize the uncertainty of circulation, which leads to specialized capitals engaged in circulation, such as commercial capital and banking capital. They argue that even inconvertible credit money still has a basis in commodity value . This means that the salability of commodities gives rise to the value of money. Banks link commodity value with value of money. Thus, money gains access to commodity value, either directly or indirectly. In this sense, money remains commodity money, and is different from state fiat money. T his paper will give an overview of ...

【新しい地代論6】日高『地代論研究』(1974年)における差額地代と絶対地代(3月13日少し修正)

 

(3月13日少し修正) 

 今回は宇野理論にとどまらずマルクス経済学原理論全体にとって、地代論の一つの基準となっている日高普(ひだか ひろし)『地代論研究:再版』(1974年)の差額地代と絶対地代を取り上げる。ただし、以下は一部の内容の要約と図解にとどまる。

差額地代における「一般」と「特殊」

 マルクス『資本論』以来、地代論の説明ではいきなり農業から始めず、まずは工業で、優等だが限られた数しかない落流を利用した生産と、それよりも劣等だが、数の限られない蒸気機関を利用した生産との比較から始まる。『資本論』では「地代のこの形態の一般的な性格を明らかにするために」として、この落流と蒸気機関の例を挙げている(Ⅲ巻、S.653) 。

 この「一般」について日高は次のように説明する。

「制限された自然力が、ある部分に不可欠であってもなくても、ともかく利用されさえしたら地代が成立する、ということが地代の「一般」なのであり、さらに、制限された自然力がある部門に不可欠な生産手段である場合には、地代がどのような特殊な形態をとるか、が「一般」に続く諸章で展開されるのであろう」(日高『地代論研究:再版』6頁。以下、とくに注記がなければ同書による)

 つまり「一般」では、制限された自然力を用いる生産条件と、制限されない生産条件の二つからなる。他方で、一般ではない「特殊」は、制限された自然力を用いる生産条件のみとなる。そのため、一般では工業が例になり、一般ではない特殊では農業が例にされている。

 制限された自然力という場合の「制限」の意味は「同じ個別的生産価格でいくらでも追加供給する事を許さない自然力の制限性」(173頁)という。

 ここで注意しておくべきことは、「いくらでも…ない」という表現は部分否定のようになっており、「同じ個別的生産価格で」いくらかは「追加供給」できることが前提になっている。つまり、同じ生産条件で追加生産できるという面と、制限のため同じ生産条件では追加生産できなくなるという面の二つの面がある。優劣の異なる複数の生産条件があり、劣等なものが利用されているとすれば、優等なものはすでに限度まで利用されているはずなので、利用されているものの中で最も劣等な生産条件のみが追加生産のために利用可能な余地がある。これが調整的な生産条件になる。

調整的な生産条件

「土地は蒸気力工場とちがって制限された自然力なのであるが、この場合その制限性は潜在的であり、追加的最劣等投資場面のうち一部に追加投資がおこなわれていて、追加投資されている部分が自由に伸縮できるようになっていなければならない」(282頁)

「需要が増大すれば追加投資のおこなわれている部分が拡大して、同じ市場価格が保たれるからこそ調整的といえる」(283頁)このように制限された自然力と調整的な生産条件の二つを考えれば、多数の生産条件の優劣の並びは、階段状になる必要があることがわかる。

図1

 一定の範囲では、同じ生産性で自由に生産量を伸縮でき、その範囲を超えると非連続的に生産性が変化し、再び同じ生産条件で自由に生産量を伸縮できるようになる。おそらくマルクス『資本論』では個々の生産性の異なる土地区画が一つ一つ生産に利用されていく想定されていたのに対して、日高は同じ生産性、つまり同じランクの土地にも多数の区画があり、それらの中には利用されている部分と利用されていない部分があることを重視する(日高87、282-283)頁)。優等な生産条件はすでに使い尽くされているとすれば、最劣等かつ、未利用部分が残るランクの土地が調整的生産条件となる。しかし、「最劣等」とは、最劣等地だけでなく、優等地への追加資本投下で最劣等の生産性になることもある。これが調整的な生産条件になる場合に生じる地代がDR2である。

差額地代第2形態(DR2)

 日高は、DR2とは「最劣等地に生じる差額地代こそ第二形態なのであり、第二形態とはそれ以外の何物でもない」(257頁)という。つまりDR2を「最劣等地にも生じる差額地代」と同一視する(日高『経済原論』203頁にも同様の指摘がある)。しかしこれは普通の理解ではない。普通の理解では、たしかにマルクス『資本論』が、DR2によって「最劣等地にも生じる差額地代」を明らかにしたことは重要だが、「最劣等地にも生じる差額地代」とDR2は全く同じとはしない。DR2は最劣等地だけではなく、優等地にも発生する。次の図のように考えれば、優等地でのDR2の発生がわかる。
図2


 実際、次のように、DR1とDR2の背反と相互転換では、優等地にもDR2が発生するとしか理解できない。

DR1(+AR)とのDR2の背反と相互転換

 「差額地代第一形態とは最劣等地には生じないような差額地代である、と。ある差額地代が第一形態が第二形態かを知るためには過去をセンサクする必要はない。最劣等地に差額地代が生じているかどうかを見ればよいのである。 …需要が従来の供給量では満足できなくなったとき、優等な条件が自然的に制限されているため追加供給は従来より一段低い生産性をもった資本でおこなわれざるを得ないとしたら、その新しい投資はどこにおこなわれるか。既耕地に追加投資としておこなわれるか、未耕地に新投資としておこなわれるよりほかはあるまい。」(292-293頁)前者はDR1、後者はDR2になる。
 つまりそれまでの調整的生産条件が量的に限界になり、非連続的により劣等な新たな生産条件で追加投資が行われる場合、新たな劣等地に資本投下されればDR1になり、すでに利用されている優等地に追加で最劣等の資本投下がされればDR2になる。そして前者では新たな土地が耕作圏に引き入れられるので、その土地所有者が「タダでは貸さない」として利用制限をしようとすればARが生じうる。この場合の「制限」は量の制限ではなく、ARを払われなければ貸し出されない、という意味での「制限」である。表にすると次の表の「新たな最劣等地」の列か、優等地の最劣等条件の列の次のどちらかのパターンとなる。
表1

 もう少し日高による説明を追加すると、
「最劣等地に差額地代が生じているときは絶対地代は存在せず、絶対地代の生じているときは差額地代は生じていない」(402頁)これはARとDR2との背反の関係を意味している。
「需要の増大にともなって最劣等地は順次に下向するのであるが、その過程で絶対地代は成立し、消滅し、成立し、消滅するのである」(403頁)これは市場価格が上昇し続ける場合に、各時点での最劣等地におけるARとDR2との相互転換を意味している。
 この関係を市場価格が上昇し続ける時系列として図解する。
まず最劣等地が調整的な生産条件で、最劣等地にARが得られれば、ARとDR1は以下のようになる。
 なお、ここで優等地のDR1には、最劣等地に発生したARの量が含まれている。日高はDR1とARを区別する。この点は次の項で説明する。
まず図2を再掲する。
図2


 次に、最劣等地が量的に限界となり、優等地で最劣等になる追加投資が起きれば、地代はいずれもDR2になる。ARとDR1はなくなる。
図3

 次に、優等地での最劣等の投資が量的に限界となり、最劣等地が新たに耕作されるようになり、最劣等地でARが得られれば、地代は最劣等地でAR、優等地ではDR1となる。
図4

優等地におけるAR

 最劣等地におけるARの上限は、その生産条件における【費用価格+平均利潤】と、それよりもさらに劣等な生産条件における【費用価格+平均利潤】との差額である。ここで問題は、
①調整的生産条件の概念では、最劣等地の区画とその所有者はそれぞれ複数であり、さらに使用されていない部分があることが前提なので、もし、利用されていない土地所有者たちが利用を求めてARの引き下げ競争をすればARは無限に小さくなる。そのため、最劣等のランクの土地の複数所有者たちが一様にARを要求するとともに、利用されない土地の所有者たちはすぐに地代を得ることはあきらめる必要がある(400頁)。
②この一様な要求がさらに劣等な土地の所有者たち、さらにもっと劣等な土地の所有者たち…と続けば、今後はARが無限に大きくなる(396頁)。
 この2点のうち①についてはARは、生産条件の状況から特定の大きさに決まるものではない(400頁)。②については、優等地に追加投資する場合は土地所有者による制限がないので、優等地の追加投資によって制約されてARを無限に大きくすることはできない(396頁)。ARからDR2への転換が起きることはここでもわかる。 
 これらは生産条件の優劣が非連続的に階段状だと想定すれば理解可能である。ただし、本源的自然力タイプ1では非連続的な階段状にはならないことが難点になることは以前の記事で論じた。また、①の問題は「在庫に満ちた市場」の概念で解決されることも同じ以前の記事で論じた。

ARについての大内との相違

 最劣等地でARが生じると、その額だけ市場価格が上昇し、優等地でも地代も増える。この価格上昇は優等地にも影響し、地代が増加する。この増加分を大内力は、市場価格との差という形態的な観点からDR1とするに対して、日高は、ARの発生が地代を増やすという実質的な根拠の観点からARとする。図解すると以下のようになる。
図5

図6

 日高の説明によると、両者は決定的な違いではなく、大内は価格の差という形態の面からDRとよび、日高は価格引き上げの根拠の面からARとよぶことにしている、とする(429、327-329頁)。現在では、またおそらく以前から日高説の方が一般的だろう。Basu[2022]は日高説である。このブログでは、ARは、「タダでは貸さない」という、新たに耕作に入る最劣等地の利用の排除の論理を重視して大内説をとっている。

まとめ

 日高説は
㋐同じランクの土地に複数の区画と所有者を設定して、調整的生産条件の概念を明確にした。これはマルクス経済学における地代論と価値論との整合性を維持した。また、ARの可能性を示した。
㋑生産条件の優劣を階段状にした。しかし、このことは本質的に不均質な土地には当てはまらないと考えられる。そのため地代論の本源的自然力を複数の異なるタイプに変容するものして、それぞれ別々に対処しなければならないことを意味する。
㋒【DR2】と【DR1(+AR)】との背反と相互転換を明らかにした。




コメント

人気の投稿