「資本」と「資産」の区別による資本概念の再検討:貸借対照表(BS)の利用
『資本論』には「資本前貸Kapitalvorschüsse」の用語がよく出てくる。この「前貸」の語を手掛かりに、資本概念を再検討する試みを10年ほど前に聞いたことがある。それは清水真志氏や小幡道昭氏の議論で、清水氏の論文は理解できなかった。しかし、小幡『経済原論:基礎と演習』や、さくら原論研究会『これからの経済原論』では、これらの議論の成果が示されている。要点は、資本投下は自分自身に貸す、つまり自分が恣意的に使用できない、そして元本と利潤が返される、という関係を「前貸」に込めてあるということだと理解した。『資本論』自体には、重農学派や実務的な用語の利用があるだろうが、ここではさしあたり問題にしない。
「前貸」の概念は結局、貸借対照表の右側で「資本」を理解することで解決する問題である。会計学では、当然の概念である。
資本は貨幣または現物で、一定の価値額として投下される。この価値額が資本として記録される。投下した貨幣と現物は、資産の側に移り、ここで生産を含む姿態変換をして価値が増殖する。左側の資産の額が増えることで右側の資本の額が増える。
そうすると資本を「自己増殖する価値の運動体」とよぶのは問題が起きる。姿態変換運動をするのは資産であって、資本は運動しない。資産の側の価値増殖運動を資本の側で利潤として受け止める。つまり資産が運動する結果を資本の増殖として認識する。資本は物体として実在するものではなく、BSでいえば右側から、左側の資産の価値額の増加を迫る存在である。
ここでは右側の資本にとって資産は「自己」なのか、という問題も起きる。資産と資本を合わせて資本とよぶ、という言い方の方がよさそうだ。実際、小幡『経済原論』での銀行行資本の呼び名はその方法を採用している。つまり、自己資本を「銀行資本」、資産も合わせた運動を「銀行業資本」としている。
経済原論内部でのこれまでの用語との整合性の問題
なお、固定資産のうち残存耐用年数が1年以下となったものも流動資産とせず固定資産に含ませ、たな卸資産のうち恒常在庫品として保有するもの若しくは余剰品として長期間にわたって所有するものも固定資産とせず流動資産に含ませるものとする。」
世の中一般での「資本」の用語を変更する必要
生産手段を資本とみなす古典派に対してマルクスやマルクス経済学者は批判してきた。当然、現在のミクロ経済学やマクロ経済学の「資本」概念のあいまいさも批判の対象であり、批判は容易である。
しかし現在、資産の意味で使われている「資本」の用語を全部、取り換えるのは相当の覚悟が必要になる。
とはいえ、世の中全体では、資産の意味で使われている「資本」の用語を変える傾向は存在する。上に挙げた、日本の会計学がその一つだが、もう一つ、国際金融で、「資本輸出」という意味を意味していた「資本収支」という用語が「金融収支」といわれるようになった(ただし一部、資本収支とよばれる取引はある。債務免除など)。
しかし、社会的な会計学というべき国民経済計算では「固定資本形成」のように「資本」のが使われている。
BSで考えること自体の問題
資本投下で価値物としての資産を獲得し、その資産が姿態変換運動をして価値を増殖する。しかし、資産としての貨幣が購入するものには、BSの資産に載らないものがある。それは労働力である。マルクスは、労働力は買われてしまえば価値がない、としているし、会計学でもBSに載せない。
(現在の会計学では試みとして「人的資本」の評価がされることがあるが、それは労働力それ自体よりも、研修などの追加要素を加えた労働力とそれ以外との差額として、差額地代に近いものである)
この問題はBSだけでなく、PLを合わせれば労働力購買が論じられるが、そもそもBSを使うのは「資本」を明確にするためなので、PLは補足としておくべきである。
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