泉正樹「資本主義の歴史的発展と経済原論:「変容論的アプローチ」からの展開」についての研究会

 


 泉氏の論文「資本主義の歴史的発展と経原論:「変容論的アプローチ」からの展開」(2021年3月刊行)の研究会を行った。論文そのものはリンク先を参照。

 (段階論の論争については私の論文「宇野弘蔵の段階論の方法における歴史と現在 : 典型・中心,自由主義の観点から」、小幡氏の「開口部」については以前の記事も参照。)

 

①全体の整合性

論文の構成は、マルクス資本論の方法、宇野弘蔵の方法、最近の山口氏、小幡氏の方法がそれぞれ取り上げつつ進んでいく。資本主義の歴史的発展の構図としては宇野弘蔵の段階論「重商主義段階・自由主義段階・帝国主義段階」に、小幡氏の「グローバリズム」が接ぎ木されているようである。(43頁など)

 なぜこうした接ぎ木のようになるのかというと、おそらく、宇野はマルクスを批判して段階論の構成を作ったが、泉氏が宇野の段階論を批判していないからだろう。

マルクスは各国がイギリスのような資本主義へと収斂していくと想定したが、宇野はこれを批判して、原理論・段階論・現状分析という経済学の理論体系を構成した。段階論では、資本主義化を自由主義段階までの純化傾向とし、その後は不純化として帝国主義段階を置いた。

その際、宇野の段階論の前提には、理論においては金貨幣や単純労働、個人資本家といった比較的シンプルな想定で、「小原論」ともいえるような原理論の内容と、歴史的には19世紀イギリスの純粋化傾向があった。しかし、小幡『経済原論』は、原理論そのものに信用貨幣や複雑労働、株式資本などを取り込む「大原論」になっている。そうすると理論的には資本主義の「純粋化」という意味がなくなり、自由主義段階の純化傾向という宇野の段階論の前提が崩壊する。(なお、小幡道昭[2015]「世界資本主義論批判」銀座経済学研究所ウェブサイトも参照)

また、山口氏は自由主義段階の純化傾向を明確に否定している(46頁)。(なお、この点は岩田[2019232頁でも論じた)

 しかし、泉氏の論文では宇野の「重商主義段階・自由主義段階・帝国主義段階」をそのまま引き継いで、時系列的に「グローバル資本主義」を置いている(とくに43頁図3)。宇野の段階論を再編しないところで、山口氏・小幡氏の方法を取り入れるのは論理的な不整合がある。

 宇野の段階論に接ぎ木して延長するやり方(岩田[2019]参照)はすでに限界であり、段階ではその抜本的に再編成する必要がある。  

 

②「グローバル資本主義」の難点

「グローバル資本主義」の内容として44頁には「,20世紀後半以降,新興諸国・諸地域における資本主義的な発展が始動した。それは,資本主義の立ち上がりという意味で,重商主義段階と同じ位置取りの再現とみることができる。また,時を同じくして,先進資本主義諸国・諸地域では,それまでの福祉国家の枠組みが,英・米に端を発する新自由主義的な「改革」によって掘り崩されていった。」とある。

新興国の「資本主義的な発展」と、先進国の「新自由主義」化という2本立てだが、新興国の「資本主義的な発展」の内容が乏しい。それとも、ここでは説明するまでもない共通理解があるのだろうか?
 新興国の「資本主義的な発展」は、自由主義段階の産業資本とはどう違うのか? というより、宇野の段階論では、重商主義では商品資本による羊毛工業、自由主義では産業資本による綿工業、帝国主義では金融資本による重工業といずれも産業の内容を具体的に示していた。

グローバル資本主義といっても、この論文では具体的な内容は42頁注13のように先進国の新自由主義にしか言及がない。小幡[2009]『経済原論』でも、内容のある記述は先進国の新自由主義化である(317頁、問題83解説など)。新興国には具体的な言及がない。「1980年代以降、新自由主義の時代に入った」と言えばいいのではないだろうか。

 ちなみに泉氏と同じく「グローバル資本主義」を論じる河村[2016では「『グローバル資本主義』として現われている現実資本主義の現状は、『グローバル資本主義段階』という段階規定の実質は欠いている。その意味では、依然として『パックスアメリカーナ段階』にあり、しかも戦後パックスアメリカーナからの変容と転換のプロセスにあるものと位置づけることができる」(59頁)とある。これは今回の泉氏の段階区分とは全く異なる。泉氏も河村氏も小幡氏も「マルクス経済学の現代的課題研究会(略称SGCIME)」という研究会に属し、そこで「グローバル資本主義」と名の付く書籍が大量に出されているが、その人たちの間でさえも「グローバル資本主義」について共通理解は存在しない。もしかしたらあるのかもしれないが、外部にはよくわからない。

 

③「非商品経済的要因」

 これまでの段階論では、資本主義の純粋化傾向の裏側を成す形で「非商品経済的要因」という語が使われてきた。この論文の42~43頁でも論じられているように、「非商品経済的要因」という語は商品経済的ではない、というだけで積極的な規定を与えることはない。「非学生」が何を言っているのかわからないようなものだ。

 しかし「非商品経済的要因」には、19世紀までには広く存在した封建制から続く共同体経済社会、19世紀末から萌芽的に始まり、第二次世界大戦後に全面化する福祉国家などいろいろありそうだ。多分ここは、小幡[2014]『労働市場と景気循環37頁で開口部として示された労働者階級の生活過程が大きな部分を占めるだろう(以前の記事参照)。「非商品経済的要因」には労働者階級の生活過程以外もあるだろうが、いずれにしても「非商品経済的要因」としてグレー一色に塗りつぶすことは、資本主義の歴史的変化を平板化する。ただし、歴史的変化を規定する力を、事実の羅列としての「非商品経済的要因」ではなく、原理論の開口部における変化に求めるのであれば、原理論を段階論構成の強力な基礎にする可能性がある。

 

④開口部を二者択一ではなく、多様な解釈が可能に

開口部とは、【金貨幣⇔信用貨幣】、【個人資本家⇔結合資本】、といった二分岐構造で示されてきた(、と私は理解してきた)。それを単純に受け止めると二者択一のように見えるが、今回の泉氏の論文ではそうではなく、分流の強弱としてとらえる視点が提示されている。また、二者だけでなく、三者以上の選択も提示されている。こういう視角は開口部の見方を広げる可能性がある。

しかし、開口部は、原理論内の特定の個所について理論的に考え抜き、「原理論ではここまでは言えるがこれから先は言えない」という臨界点にあるだろう。そのように考え抜いたという根拠がなければ形式的で恣意的な設定でしかない。

 

以上は私の質問だった。研究会では小幡氏から「グローバリズム」論の正当性についての話もあった。内容は基本的に 質問に答える:「マルクス経済学を組み立てる」をめぐって | GKEN HOME PAGE の「回答.4」と同じ。これについてまた機会があれば論じたい。なお、小幡氏には、小幡道昭[2011]「資本主義の発展段階論と中国経済の台頭」もある。

 

おわりに

最近では(1990年代以降?)、宇野派の中では現状分析をやる人たちは原理論から離れ、逆に原理論の人たちが原理論に基づく段階論や現状分析の方法を提起するようになったように見える。

 原理論の専門家の人達が、現在の資本主義を論じる場合には、どうしても事実の認識の浅さがみられるように見える。それはやむを得ないことかと思いきや、しかしよく考えてみると宇野弘蔵は原理論を中心としながらも現状分析の研究もしてきた。『経済政策論』はもちろんだが、宇野弘蔵著作集第8巻にあるような現状分析もある。また、逆に現状分析からも原理論の再構成の方向が示されたこともある。馬場宏二の「アメリカモデルの原理論」(岩田[2019236-237)である。ただ、これはその後の株式資本の原理論での取り扱いを踏まえる必要がある(岩田[2019227)。

 

研究会では、「開口部」論の段階論への適用が本当に可能なのか、あるいは現代資本主義の把握のために有効性があるのか、ということも議論になった。これは実際にやってみせないことには説得力はない、ということで(たぶ)一同了解した。

専攻分野が違えばかみ合わないことも多々あるが、いずれにしても原理論、段階論、現状分析を体系として把握するために、あいまいさをあいまいにしない議論が今後とも重要だ。


コメント

  1.  泉正樹です。
     自分の書いたものが「研究会」以外の場で取り上げられ公開されていることにドギマギしていますが、以下、若干のリプライをしてみます。

     岩田さんのコメントは、「①全体の整合性」、「②「グローバル資本主義」の難点」、「③「非商品経済的要因」」、「④開口部を二者択一ではなく、多様な解釈が可能に」、「おわりに」の五つのパートから構成されていますので、それに沿わせるかたちで応答してみます。

     まず、「①全体の整合性」について。この部分の要点は、「泉氏が宇野の段階論を批判していない」ということに尽きるようです。宇野はマルクスを批判し、山口先生・小幡先生は宇野を批判して自らの方法を提示しているのに、「泉氏の論文では宇野の「重商主義段階・自由主義段階・帝国主義段階」をそのまま引き継いで、時系列的に「グローバル資本主義」を置いている(とくに43頁図3)」といわれています。

     そのように読まれてしまう書きぶりだったのかもしれませんが、「商品経済的要因」/「非商品経済的要因」という二分法に付き合って、「宇野の「重商主義段階・自由主義段階・帝国主義段階」」の位置取りをまず明確にしようと考えていました。そのうえで、「帝国主義段階」(「商品経済的要因」の抑制 ∧「非商品経済的要因」の強化)を「資本主義の末期」と捉える見方は、1970年代以降の現実も視野に入れると、ちょっと苦しいのでは、ということが「図3」で示したかったことです。

     「末期」を画するはずの組み合わせとは異なる「組み合わせ」(「商品経済的要因」の強化 ∧「非商品経済的要因」の強化))が生じるというのは、宇野の「重商主義段階・自由主義段階・帝国主義段階」にとっては想定外のことであったということを示したかったのです。その想定外に対して、資本主義の〈「最末期」と考える〉か、〈もしかしたらまだ「末期」ではなかったのかもしれないと考える〉か、二つの方向がありうると提示して、さしあたり後者のような気がしていますということを書いたつもりでした(45頁)。

     要するに何が言いたいのかというと、結構、思い切って、資本主義の現状を「末期」とみる「宇野の段階論を批判」したつもりでいたので、「資本主義の歴史的発展の構図としては宇野弘蔵の段階論「重商主義段階・自由主義段階・帝国主義段階」に、小幡氏の「グローバリズム」が接ぎ木されているようである。(43頁など)」と岩田さんに読ませたのは痛恨の極みだな、ということです。


     次に、「②「グローバル資本主義」の難点」について。「グローバル資本主義」という用語が神経を逆なでしてしまっているのかもしれませんが、この用語にかこつけて示したかったのは、「「商品経済的要因」の強化 ∧「非商品経済的要因」の強化)」ということです。ですから、宇野の「重商主義段階・自由主義段階・帝国主義段階」に頼らずに、資本主義の歴史的発展の画期は、「商品経済的要因」と「非商品経済的要因」という二分法を使うならば、それらの「強化/抑制」の組み合わせとして捉えることができそうです、といえばよかったのかもしれません。そうすれば、「宇野の「重商主義段階・自由主義段階・帝国主義段階」をそのまま引き継いで」、かつ、「山口氏・小幡氏の方法を取り入れる」という、「論理的な不整合」という読ませ方にはならなかったのかな、とも思います。

     そのうえで、「グローバル資本主義」の内容としてイズミが挙げているのは、「新興国の「資本主義的な発展」と、先進国の「新自由主義」化という2本立てだが、新興国の「資本主義的な発展」の内容が乏しい。それとも、ここでは説明するまでもない共通理解があるのだろうか?」という点について。

     新興国の「発展」としては、SGCIME編『第3版 現代経済の解読』(お茶の水書房、2017年)第4章「新興諸国の道程」とかを思い浮かべながら書いていました。市場を活用した経済成長は、自然にもたらされたわけではなく、市場を導入するという明確な意思(人為)に基づいて様々な方策がとられたというふうに読み取って、それは、(「商品経済的要因」の強化 ∧「非商品経済的要因」の強化))として押さえることができるかな、と考えた次第です(先進国の「新自由主義」についても同じ配置で行けるかな、と考えました)。


     ただ、問題はその先にあります。「③「非商品経済的要因」」として岩田さんも指摘されているように、これまで当然のように「商品経済的要因」/「非商品経済的要因」とか使っているけど、それっていったい何なの? という問題です。今回の論文では詰め切れなかった問題ですが、方針としては、「商品経済的要因」といってきた内容を明解にしたらいいのかな、とさしあたり考えてみました(42-3頁)。商品を売買する「市場」が成立するには、どのような条件が最低限セットされていればよいのか、という論点です。ちょっと準備不足でそれ以上の応答が現状ではできないのですが、たとえば、「国家」という要因は「非商品経済的要因」だと私はずっと思い込んでいたのですが、「国家」と一括りにしてきた中身を分解して検討してみると、そのうちのある部分は「市場」にとって不可欠であるとか、そんなことが考えられるのではないか、と思っています(ただの直感なので的外れかもしれません)。


     「④開口部を二者択一ではなく、多様な解釈が可能に」について。拙稿の49頁以下の記述については、まぁ、「開口部の見方を広げる可能性がある」というかたちで一定程度評価はしてもらえたのかなと思いますが、「開口部は、原理論内の特定の個所について理論的に考え抜き、「原理論ではここまでは言えるがこれから先は言えない」という臨界点にあるだろう。そのように考え抜いたという根拠がなければ形式的で恣意的な設定でしかない。」とも述べられています。「イズミくん、ホントに考え抜いてる?」というコメントかな、と受け取りました。いろいろ今後も考えてみたいと思ってます。

     さしあたり、「図6」(52頁)はちょっとダメでしたね。ああいったイラストを描いてしまうと、「小幡『経済原論』は、原理論そのものに信用貨幣や複雑労働、株式資本などを取り込む「大原論」になっている。」という解釈を強化してしまい、マズイなと思っています。秋のシンポジウムの時になるかと思いますが、その点はもう少し丁寧に説明すべきだと思いました。これは私の解釈ですが、原理論そのものは、「信用貨幣や複雑労働、株式資本などを取り込む」ことはないと考えています。もちろん、「金貨幣や単純労働、個人資本家」などを取り込むこともないと考えています。

     たとえば、原理論そのものでは、「商品価値の統一的な表現様式」として「貨幣」を提示し、その現れ(「原理論そのもの」ではない)として、「金貨幣」と「信用貨幣」とが考えられるとかいった感じです。いずれにしても、このあたりの紛れのないイラストをもう少し考えてみます。


     「おわりに」で、「原理論の専門家の人達が、現在の資本主義を論じる場合には、どうしても事実の認識の浅さがみられるように見える。」といわれています。「原理論の専門家の人達」=イズミという限定的な規定であれば、ご指摘は甘受します。他の「原理論の専門家」については私はちょっと分かりません。「いずれにしても原理論、段階論、現状分析を体系として把握するために、あいまいさをあいまいにしない議論が今後とも重要だ。」という点はその通りだと思いました。

    返信削除

コメントを投稿

人気の投稿