地代論の再構成:知識についての新しい地代論
マルクス経済学では地代論はこれまで農業において適用されてきた。土地所有が資本蓄積にとって制約となり、農業における資本の有機的構成が低いままにとどまり、その結果、資本主義の下での農業の後進性が生じる、という流れで論じられた。また価値論としても、有機的な構成の低い農業の生産物の商品では個別な価値が、生産価格よりも高く、その差が地代の源になるともされてきた。これは特に絶対地代で論じられている。
しかし現在、全く逆に、ITのような先進的な部門で、新しい技術や商品をもたらす知識に地代が発生する、という議論が活発に行われるようになってきた。従来の原理論がこれを取り扱うには、
1.土地と農業を基本とする地代論の応用で説明できるのか、それとも
2.全く新しい地代を要請するのか、それあるいは
3.従来の土地と農業を中心とする地代論をさらに抽象化して「○○」と名付けて、その一般化された「○○」の具体的な(抽象度のより低い)存在として土地あるいは知識という形になるのか。
現在の宇野理論では小幡[2009]『経済原論』にあるように、「○○」を再生産不可能な生産条件として「本源的自然力」と規定する。本源的自然力は、土地だけでなく「パテント化された生産技術など、原理的には同様に考えるべき対象は、制度と権力を背景に、無形の知的領域においてもつくりだされている」(202頁)となる。
これを上記の「3.」方法として、「「変容論的アプローチ」における用語」の図を用いて表現すると、
ここで地代の基礎を確認すると以下の通り。
①同一種類の商品は同一の内在的な価値を持つことを前提に、
②複数の異なる生産条件が排他的に占有されている場合に、
③優等な生産条件を用いる資本が超過利潤を得られるので、その超過利潤は優等な生産条件の所有者に地代として取得される。
この方法で、現代の宇野理論には、知的所有権を地代論として解く端緒的な試みがいくつかある。
たとえば小幡「コンピュータと労働:再論」経済理論学会67回大会報告スライド29
さくら『これからの経済原論』「Column知的財産権」152-153頁
小幡『経済原論』では著作権のような知識の取引の特殊な形を論じている。つまり、そのものの売買ではなく貸借だ、という。
しかしいずれも知識を地代論、あるいは別の原理論の個所で説く方法と、その内容について明確にテーマに据えているわけではない。
上に書いた地代論の方法に基づいて、まずは形式的に知的所有権を分類すると、次のように考える必要がある。その知識が、
㋐生産条件として作用する場合
㋑流通過程に作用する(と想定されている)場合
㋒知識そのものが売買される場合
㋐生産条件として作用する場合
同種大量の商品において、生産過程の【費用価格+平均利潤】で違いが生じる場合は、超過利潤が発生し、それは特別利潤あるいは地代になる。
特別利潤になるのは、その生産条件がそのうち模倣され、超過利潤が証明することが想定される場合である。地代の場合は模倣されずに固定される。
知的所有権の中の1つ、特許の場合は、保護期間の間は模倣されないので超過利潤が得られれば地代になる。なお、念のために付記すると、法的に保護された期間より前でも、もっと効率的な技術の知識が新たに登場して、特許で保護されてるはずの知識が無効化(陳腐化)されることはよくある。また、「営業上の秘密」は、期間の限定なく、保護される場合もある。
現在の宇野理論の知的所有権についての端緒的な議論は、このように生産条件で作用する地代論を前提にしている。そもそも原理論体系では地代は、生産に関する価格機構論の中の最後、流通にかかわる市場機構論よりも前にあるのだから、正当な位置づけである。
㋑流通過程に作用する(と想定されている)場合
次の問題は、著作権のように、同種大量ではなく、他との差異化が前提になっている場合である。例えば普通の板チョコは、メーカーが異なっても同種商品といえるが、そのラベルの違いが知的所有権で保護されることがよくある。現代の宇野理論では、普通同時大量という概念を持ち出すときに「ラベルを剥がせば同じモノだ」という説明をよくする。逆に言えばこのラベルは、同種のモノを差異化するといえる。知的所有権の分類でいえば著作権、意匠権、商標権などである。
この差異化は、流通において作用する。つまり、販売を促進する(と思われる)場合である。これは、 生産条件にかかわる地代論とは異なり、流通過程で生じる事態として論じる必要がある。
従来のマルクス経済学の範囲でも2つの方法で論じることができる。
一つは「商業地代」である。マルクスの『資本論』では、商業資本を論じた部分で、販売(回転)が促進される特殊な条件があればそれは地代になる(第3巻S.326)。「商業地代」とは言う名前は書かれていないが、その後、商業地代とよばれている。
もう一つは「競争的使用価値」であり。これは、ラベルだけではなく、大きくは類似の商品と同種だが、多少の品質や機能の違いで差異化することで販売を促進すると思われるものである。これはマルクス経済学の1つの分野である商業経済論で石原武政が論じた。石原武政[1982]『マーケティング競争の構造』
こうした差異化はすぐに模倣されることもあるし、知的所有権として保護されることもある。石原は地代論までは論じてはいないが、一定期間固定される場合には商業地代になる。いずれにしてもこの競争的使用価値とは、個別的販売の偶然性をコントロールするためにラベルを変えたり、使用価値の本質的な部分は同じだが、副次的な部分を変えたりして差異化するものである。模倣(競争)による同種化されるが、さらに差異化され、この過程が繰り返されて商品が多様になる。
㋒知識そのものが売買される場合
本という内容という知識の面つまり無体物の要素と、物質的な有体物の面がある。この区別は小幡「仮想通貨の貨幣性・非貨幣性」においてもメディアとコンテンツとして区別されている。
割り切って考えようとすると、a)
知識(本の内容無体物)は本という有体物を売るためのラベルと理解するか、あるいは b)知識そのものを売ることがメインで、有体的な要素は付属に過ぎない、と分類できる。
例えば音楽CDは、曲と演奏された音のデジタル情報という無体物と、CDという有体物、さらにジャケットに関する色彩・デザインの無体物と印刷された紙という有体物、さらに言えば、CD、印刷された紙、プラスチックケースなどの製造に要する知識という無体物が含まれている。このように一つの有体物のように見える商品も実は多数の無体物の要素を含んでいる。これに似たことは、以前紹介したTomásN Rotta, Rodrigo A Teixeira(pp.386-387)が音楽コンサートのチケット商品の複合性として論じている。
ITの発展は、音楽CDではなく、ダウンロード、ストリーミングなどの方法で、有体物から切り離された無体物のみの取引を可能にした。知識を地代をとしてとらえるならば、こうした無体物としての音楽は「買う」のではく「借りる」ことになる(これは小幡『経済原論』も論じている301頁)。従来、有体物とセットになっていた本や音楽CDが、有体物の要素なしで無体物として売買できるか、という問題になる。
まだ私ははっきりとはわからないが、おそらくそうした売買はできない、あるいは取引のあり方が大きく変わることになりそうな気がする。実際、ITの発達で有体物から切り離された無体物の多くがサブスクリプションとなりつつある。サブスクリプションは、無体物としてのさまざまなコンテンツが詰まった束を一定の期間利用できる権利として一定の金額で売買される。その権利が商品の本体で、様々なコンテンツはラベルとなる。
と、以前、研究会で話したら、「商品の本体はコンテンツだろう。コンテンツがただのラベルというは納得できない」と反論があった。確かにそんなきもする。しかし、《普通のテレビ放送のメインはCMであって、番組はCMを見せるためのラベル》だと思えばそれほど不思議なことではないだろう。
この点はFrayssé 183頁の引用が面白い。
There are many ways
of talking about television. But, from a business perspective, let’s be realistic:
basically TF1’s job is to help, say, Coca-Cola, to sell its product. For an advertising
message to be perceived, the viewer’s brain must be available. The purpose of our
broad casts is to make it available, that
is, to divert it, to relax it in order to make it ready between two ads. What we
are selling to Coca-Cola is available human brain time. (Lesassociésd’EIM2004)
Frayssé Olivier, ‘Is the Concept of Rent Relevant to a Discussion of
Surplus Value in the Digital World? ‘ in ReconsideringValue and Labour in the Digital Age pp.172-187
今回はまとまりのないところで終わるが、知識は生産過程における地代論に集約できない。新ためて体系的に論じる。
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