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Turnover of industrial capital, commercial and bank credit: modern Unoist approach 2. Turnover of the industrial capital

2. Turnover of the industrial capital   2.1 Premises of Turnover in Marx’s Capital Marx analyzed turnover as consisting of production and circulation. He sometimes discussed shortening the total turnover time by reducing the circulation period (e.g., Marx 1973, 659; Marx 1978, Chapter 14). After introducing the concept of continuous production through added capital in Chapter 15 of Capital Volume II, the focus shifted to how circulation length affects the amount of capital that must be advanced and the volume of idle money (Marx 1978, 358).  In Chapter 15, Marx made several assumptions to clarify the nature of industrial capital, differs from the general formula for capital, M-C-M’. We regroup the ten assumptions in Saros 2008 (195) as follows.   A. Basic assumption on turnover.  A-1. Production is continuous (Marx 1978, 334) A-2. No fixed capital is assumed (Marx 1978, 354) A-3. All production time is working time (Marx 1978, 334) A-4. Surplus value is set asid...

東経大学術フォーラム:労働の報告での質問・感想について

 

 学術フォーラムの労働の報告での質問・感想についての小幡氏の回答は質疑応答のページにリンク先が示されています。

 以下、このブログ記事には私(岩田)の(勝手な)意見を書いておきます。以下の回答は小幡氏の見解とは関係ありません。

 文体が失礼な書き方になっているところもありますが、丁寧に書くと無限に時間とスペースが必要なのでご容赦ください。


◆20世紀の操作操縦型の労働と、AI時代の労働を「相」から考えるとその違いはどう説明されますか?

←当日の報告者からの回答は、“AIの定義そのものが曖昧だ、また、AIで自動化すると言ってもAIを機能させるための下準備に非常に労力がかかるので、単純に自動化とは言えない”、というような内容だったと思う。

 私(岩田)として、3つの相の観点から、目的設定・手段設計の部分が大きくなるといえると思う。

この3つの相の概念は便利で、授業でも重宝している。

3つの相




◆資本主義の発展段階において、労働がどのように変容してきたのか。「三つの基本相」を分析の基準として、資本主義の下での労働の変容を考えたとき、基本相の要素である“コミュニケーション”、“技術”、“技能”、“操作操縦”などは、歴史的変容のもとでは伸長したり、縮小したりしながら変容するということになるのでしょうか。

←3つの基本相は“コミュニケーション”、“技術”、“技能”、“操作操縦” ではないでしょう。目的設定、手段設計、逐次制御の3つの組み合わせの比率が異なるのではないか。


◆「三つの「相」の関係は? 排他的? 同時存在? 因果関係?」

← 貨幣の場合と違って排他的ではない(貨幣の場合は物品貨幣と信用貨幣(不換信用貨幣) への変容が排他的だった)。

 複数の相が混ざるという意味では同時存在ではなく、きっちり区別されるべき、ということのようだ。質問の「因果関係」は正確な言い方ではなく、3つが順番に行われていくのか? という趣旨。これは基本的にこの順番で生じるといえるのではないか。


◆「労働のコア概念について質問します。資本主義のもとでの労働を考えた場合、主体Aが欲求Bを把握して、働きとして目的物を設定する行為は、「商品が他人の使用価値」であることと共通すると考えてよいのでしょうか。」

←これは「コア概念」についての質問ではなく、「第1相の目的設定」の質問だろう。目的設定ができることが、労働が他人のための使用価値になる可能性を与えることになる。(他人のための小幡『原論』109頁と問題72に関連)


◆他者とのコミュニケーションを通じて初めて「目的」が明確化されるというなら,労働に「目的意識的活動」という単独の労働過程でも成り立つような定義を与えてきた点も,再考されるべきではないのか。それに関連して,「自分自身の空腹感ならはじめから、たとえば目玉焼きのかたちで現れるでしょう。さきにモヤッとした空腹感一般がまずあって、それをなにでどうやって満たすか、悩むことはありません。」とあるが,そうでもないような気がする。漠然とした空腹感と種類と量が特定された欲求は,単独個人においても区別される。しかし自分一人だけの問題なら,適当になんでもいいから食べてしまえば空腹は満たされるので,あまり目的意識的活動が要請されない。他者がいてはじめて,労働と呼べるような人間的活動がなされるのではないか。

←この質問は今回の小幡氏の報告の趣旨をさらに進めて考えれば、という趣旨。そうすると、労働の目的意識性というのは他者の目的を自分の目的にするという所からでないと始まらないのではないかという意見、しかしこの意見は極端だろう。自分のための労働であっても、自分は本当は何をどのように実現したいのかを明確にさせることはよくある。それが直接欲求につき動かされた行為と、目的意識的な行為との違いである。直接欲求につき動かされた行為は「非労働」になる(小幡『経済原論』104頁)なお、「非労働」には、目的意識性が欠如して直接的欲求に突き動かされた人間の行動という意味と、そもそも人間の行為がないつまり労働がないという意味の2つがある。


◆「1)自動運転=労働不要論に対抗する形で,拡張の方向性,第一ないし第二の相を示されていますが,小幡氏の「自然過程としての生産過程論」からすると,分業が自然過程に即して行なわれる技術=自動化が先生のお考えの本筋で,人間の技能が介在する分業=習熟効果は自動化に至る一コマにすぎないのでは? 個人的関心で言えば,労働の定量性が自然過程としての生産過程論で与えられている(過程の量的収支で生産,消費を分けられている)ために,人間労働の介在する余地が小さいのでは?」(次に続く)

←この質問の前提は「生産=労働」になっているのかもしれない。 今回の報告ではどちらかというと、自然過程を基礎とする生産は第3相に含まれ、それ以前の第1相と第2相が重視されている。ここで今回の報告を発展して考えれば、投下労働量の計算は第3相に費やされるものだけとなろう。第1相と第2相への投下労働量には客観性がない。(もちろん、小幡『経済原論』での投下労働量の意義は、個別商品の交換価値ではなく、総資本と総労働の剰余価値率の計算に適用されるもの)


◆「2)欲求に対する目的設定が「第三者に委ねられることに伴うコミュニケーション」(後述の「前者」)と「生産物を所与として編成される生産過程内のコミュニケーション」(後述の「後者」)とが区別されていないように見えます。

前者は商業活動が関わることもあるが、それは商品経済に固有のこと。

他方、後者は普遍的な生産過程で起きることで、目的のモノとその物量から、労働も労働手段、労働対象もその手段と化し、効率的編成を強いられ、定量性を得る。この場合の生産物が有体物か無体物(サービス)かは関係ないものの、対人サービスと生産過程外の商業労働を同じ労働生産過程論で導出してしまうと、直接的生産労働との異同が曖昧になるのでは?

←前者は 商品経済に特有ではないと思う。非商品経済的な関係な人間同士の関係においても、労働者は他者のために何かをしてあげる場合には 他者の目的を自己の目的として明確化する必要がある。 商品経済ではないからといって、労働者は自分の好きなように他者に 対して振る舞うわけではないだろう。ここにはコミュニケーションが必要で、今回の報告はこのコミュニケーションが中心テーマだった。

 後者は、この労働過程論の次に出てくる、協業(労働組織論)における意識の結合である。ここでも他者とのコミュニケーションが必要になる。作業の連携のためであるが、他者の目的を自己の目的とするためのコミュニーションという意味では前者と同じ。その意味で区別されないはず。定型化された作業であれば後者のコミュニケーションは小さくなるが、必要であることには変わりない。ゼロから目的をすり合わせる非定型的な作業であれば前者のコミュニケーションは大きくなる。本質的に同じものが状況に応じて強弱をつけることになるのではないか。


◆労働論を「主体とモノ」の二分法から出発して展開するのは無理があるのではないか。例えばその場合、感情労働はどう説明されるのか。労働「主体」が、自分の感情を「モノ」としてコントロールするというのは擬制的に過ぎるように思われる。現代の労働を考えるためにはデカルト的な心身二元論の批判が必要ではないか。

感情労働についての報告者の回答には納得できない。対人サービスにおける顧客(の感情)は、外延をもった対象という意味での「モノ」ではあり得ないと思います。また、感情労働がコントロールするのは基本的には労働者自身の感情であって、顧客のそれではないとも思います。他者の感情は原理的に不可知である以上、コントロールできるのは〈他者の感情に働きかけようとする自己の感情〉だと考える方がよいように思います。だからこそ、感情労働論では「顧客に向けられた労働者自身の感情と労働対象としての顧客の感情」のうち、「主として前者が考察の対象」になってきたのだと考えられます(阿部浩之「感情労働論理論とその可能性」『季刊経済理論』第47巻第2号、2010年、65頁)。このような労働過程を「目的意識的活動」という従来型の労働規定で描写しようとすると、「主体」の「意識」が自己の「意識」に働きかける、といった循環的なかたちになってしまって、説明になりません。「主体」と「モノ」、あるいは「身体」と「意識」といった構図で労働を捉えようとすること自体にやはり問題があると考えます。

←これは泉氏の報告への疑問。方法論を論じた泉氏の報告のどういう脈絡で出たのかよく理解ができないので、何が問題になっているか、よくわからないが、次のように考えたほうがよさそうだ。

 まず最近の経済原論では、【意識→身体⇒労働手段→労働対象】として示される(小幡『経済原論』108頁など)。

 これを踏まえて考えると、感情労働は身体と労働手段が結合し、さらに労働対象が他者の感情になった状態だろう。つまり【意識→身体=労働手段→相手の感情】 労働者自身の感情は意識のことだ。道具を動かすために身体を適切に制御できるように意識を集中することを意識するのと同様に、表情や声のトーンを制御するために感情を整えることを意識する。感情労働が「循環的」だというならば、意識を集中するのもすでに「循環的」になる。何が問題かといえば、そもそも感情労働の概念そのものに再考の必要がある。阿部氏の論文での定義は次のようになっている

「労働者が対人サービス労働を遂行するにあたり、顧客に適切な精神状態を呼び起こすことを目的に、公的に観察可能な表情と身体的表現を作るために行われる、顧客に向けられる自身の感情を管理する労力」

 一般的に「感情労働」の「感情」とは、たしかにこの定義にあるように「自身の感情」のことだ。このように労働者自身の感情を制御することを一般に感情労働という。しかしこの定義にはもう一つの「感情」がある。「顧客」の「適切な精神状態」だ。この二つの感情のうち重要なのはどちらだろうか? たとえば工場の生産ラインでの単調な労働を長時間続ける場合、自身の感情を管理する」ことが必要になるのが、これは感情労働とは言わない。感情労働として言われるもの不可欠の前提は、相手の感情への働きかけという労働だ。

 相手の感情への働きかけでは、自身の感情を管理する」ことは必ずしも必要ではない。意識的に活動すれば「公的に観察可能な表情と身体的表現」は作ることができ、相手の精神状態に影響を与えることができる。とくに感情労働の中でも表層演技を考えればすぐにわかる。深層演技の場合は説得力を持たせるために自身の感情を管理する」ことが必要になる場合もある。この場合、自身の感情を管理する」ことは意識の一部になる。

 ただしそう考えると、道具を使って相手の感情に働きかける場合は感情労働か、という疑問が生じる。これは一般的には感情労働とは言わない。結局のところ、身体だけで直接に作業するのか、道具を使って作業をするのか、という違いだけになる。感情労働は、あたかも労働手段がなく、自分の意識だけで行えるかのような労働なので、純粋に労働を考える場合には非常に有益である。私(岩田)も授業で重宝している。しかし感情労働とは何か、既存の定義を疑う必要がある。

 なお、感情労働の一般的な定義のもう一つの問題は「顧客」という語である。これは商品経済を思わせるのでもっと中立的に「相手」といったほうがよい。感情労働についてこのブログの他の記事「感情労働」「サッカー選手の感情労働と新自由主義」も参照。


以上です。



 

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