「地代生み資本」「レント生み資本」rent-bearing capital, rentetragendes Kapitalの概念は誤り
新しい知識の発見には多大な労力や資材が
必要になるが、一旦発見された知識はコストがゼロで利用を増やすことができる。
まず、この知識が価値物かどうかで論争がある。
次に、新たな知識を得て超過利潤を取得することを事業活動とする経済主体が「資本」といえるかどうかが問題になる。
知識が価値を持つかどうか
労働生産物として価値を持つと主張するのがFuchsらである。この見解は、検索サイト利用や位置情報発信などでの一般の利用者の活動が労働として価値を形成し、IT企業はそうした活動をする利用者には報酬をほとんど払わないので、IT企業は資本として利用者から剰余労働による剰余価値を搾取する、という主張である。以前の記事参照。
しかし、多数の利用者による活動の結果、得られる知識や、研究活動による新たな知識は、投入と産出との間に確定的な関係はなく、また一度得られた知識は、ほぼコストなしで利用できるため、知識に価値があるとはいいがたい。こちらの主張の代表がTeixeiraとRottaである。
知識そのものには事業活動において使用価値はあるが、それ自身は価値物ではない。また、知的所有権などで知識が排他的に所有されている場合に、知識の所有者は、産業資本に知識の実施権を与えることで、産業資本が得た超過利潤を実施権料として取得することができる。この仕組みは土地と地代(rent:レント)の関係と同じなので、原理論の地代論としてとらえることができる。
Teixeira and Rottaによる「地代生み資本」概念
Teixeira and Rotta [2012] ValuelessKnowledge-Commodities and Financialization: Productive and Financial Dimensionof Capital Autonomization は土地や知識からレントを得る主体を「地代生み資本rent-bearing capital」とよぶ。知識を新たに発見してレントを得る場合は、土地の場合とは異なる点があるため、彼らはとくにModern rent-bearing capitalとよぶ。資本であるというのは、知識の新たな発見には何らかの労力や資材が必要であり、その活動の結果、得られた知識が知的所有権で保護され、地代を得れば、資本による投資と利潤の関係のようになるからである。ただし、彼らは、発見された知識は価値物ではないため、資本の通常の循環運動の【 G(貨幣)-M(商品)…P(生産過程または生産資本)-W’ -G’】の形ではなく、【 G-G’】の形をとる(p.465)という。ただし正確にいえば、価値が継続していないので、【 G…G’】だろう。知識は商品だが、価値物として販売されるのではなく、使用価値として賃貸しされる。
マルクスにおける「地代生み資本」の用法
彼らは地代生み資本rent-bearing capital という用語をマルクス『剰余価値学説史』から援用している。das rentetragende KapitalがWerke版『剰余価値学説史』3巻 S.504, S.508, S.509にある。ただし、「補録:諸収入とその諸源泉。俗流経済学」の箇所である。S.504では、利子生み資本は貨幣資本家、産業資本は産業資本家、地代生み資本は土地所有者の人格化だとする。また、S.508では、利子生み資本、レント生み資本、利潤生み資本と列挙し、これらの様々な収入の源泉は剰余労働だ、と論じる。最後にS.509では、地代生み資本は農業資本agricultural capital(英語表記)としてのみ、つまり特別な領域でのみ現れる、としている。
『資本論』には「地代生み資本」の概念はない。なお、「地代を生む資本Rente tragende Kapital」という表現も多数あるが、そのほとんどは、差額地代第2形態で追加投資が超過利潤を生じ、地代を生む資本投下、という意味である。
Teixeira and Rottaにおける「利子生み資本」と「地代生み資本」の対比
Teixeira and Rottaの主張の柱の一つは、現代の資本主義を「金融化」として特徴づけることへの批判である。「金融化」や「レント資本主義」論は、生産や実体経済から遊離した、金融的な不労所得的な傾向をすることが多く、土地や地代(レント)も金融資産や利子として金融的に一元化して理解することも多い。Teixeira and Rottaは「金融化」それ自体を否定するわけではないが、金融化という規定だけでは不十分だ、という。資本は増殖の根拠から乖離して、増殖のみが自立化する。これがCapital Autonomization「資本の自立化」である。これは金融的な側面では金融化による利子の取得、生産の面では知識商品によるレント取得、というセットから構成される。このセットには、商品の価値の面が金融化の利子取得であり、商品の使用価値の面がレント取得という対比もある。
なお、Teixeira and Rotta [2012]のもとになる論考、Teixeira and Rotta [2008] Modern Rent-bearing Capital New Exclosures, Knowledge-Rentand Financialization of Monopoly Rights
(日本語訳)2008年の段階ではレントの金融化が中心テーマになっており、「資本の自立化」の概念と、その構成要素である「金融化」と「知識商品によるレント」という関係がはっきりしていない。
「利子生み資本」と「地代生み資本」はともに誤り
現代の原理論では「利子生み資本」も「地代生み資本」もともに誤りである。マルクスの貸付資本の考えに対する宇野学派による批判をたどっていけばそうなる。まず貨幣資本家や貸付資本家という独立した資本家は存在しない、と宇野は主張した。利潤を得ることができる資本が、利潤よりも低い利子で満足することはない、と論じた。宇野は、産業資本の循環の中で一時的に遊休する貨幣資本のみが利子のみで満足する。次に、株式資本のように長期的に利子だけで満足する資本について宇野は、実際には存在しないが理念として存在するとした。しかし山口重克以降では、短期的な資金の遊休を、固定資本の償却資金や蓄積資金のような長期の資金の遊休資金へと拡張して、株式や債券を原理論で論じることが可能、と示されている。さらに小幡『経済原論』は、資本の姿態変換運動を重視して、貨幣を貸して利子を得るという方式は、姿態変換しないので、資本ではないとした(小幡『経済原論』87)。たしかに貨幣の一時的な利用権の販売の繰り返しは資本ではないし、労働力の一時的な利用権の販売の繰り返しも資本ではない。同じく、「擬制資本」の概念も成立しない。
貸借対照表の両者の違いを考えてみても利子生み資本の誤りは自明だろう。利子を生むのは銀行業資本の保
有債権である。利潤は銀行業資本の自己資本を基礎に得られる。そうすることで利子を得ながら自己資本に対する一般的利潤率を得ることも可能になる。自己資本を貸して利子を得るわけではない。
このように利子生み資本を批判してきた経緯は、資本を貨幣ととらえる、また逆に貨幣を資本ととらえる誤った理解が解消されてきた過程である。
もし、宇野が批判したような、貨幣を貸して利子を得る利子生み資本を想定すれば、それと対照的に、土地を貸して地代を得る地代生み資本も想定されよう。しかしこういう利子生み資本自体や誤りである。
次に「地代生み資本」とよばれるようなものがありうるか、その可能性を検討する。
分化発生論における新たな知識の発見機能の位置づけ
原理論では産業資本は、生産論で特別剰余価値、機構論で特別利潤を得ようとする、と想定する。それゆえ産業資本の内部には新たな知識を生み出す要素がある。
産業資本の内部にある異質な要素から、個別資本の利潤最大化の追求の中で異なる種類の資本への分化を説く方法は、分化発生論とよばれてきた。流通過程や信用業務は、商業資本や銀行業資本という形で資本として分化する。では、新たな知識を発見する要素も資本として分化するだろうか? まず分化発生する他の資本と比較する。
はじめに商業資本は、不確定な流通過程に特化しており、そこでは流通費用と販売との間には確定的な費用と効果の関係がない。しかし、仕入れて販売する商品自体には確定的な生産過程を背景にしており、価値物である。そして姿態変換もある。そのため資本の再生産過程に基づいているといえる。なお、流通費用の部分は、【 G貨幣-W商品…(消滅)】という形になるので姿態変換しない。姿態変換する部分としない部分を合わせて資本となる。この構造は産業資本でも同じ。
次に銀行業資本も、信用調査費や貸倒準備になる自己資本の額には、与信額や利潤額との確定的な関係はなく、さらに生産物を売買するわけではない。しかし現代の原理論では商業信用から銀行信用へという論理展開が基礎になっており、そこでは、銀行業資本の与信先の受信資本における商品販売可能性への調査に基づいている。銀行業資本自身は姿態変換をしないが、自身の利潤は与信先の資本の姿態変換運動の確実性にかかっている。この点で、与信先の資本と一体として姿態変換をする資本という性質をもつ。信用貨幣の創出をしない非銀行金融機関も含めて、これらの資本では、貸借対照表で債権と債務を両建てで増え、両者の利鞘を得て、自己資本に対する一般的利潤率を得ることが可能になる。
次に「地代生み資本」となりうるものを検討する。
これにはいくつかの形がある。第1に最も単純には知的所有権の有る知識を保有してそれから特許使用料として地代を得る活動がありうる。これは自分の保有する貨幣を貸し出す主体と同じく、資本ではない。その知識は産業資本が借りて事業活動をし、産業資本の生産過程で機能するが、生産過程は、貨幣や商品の姿態変換運動にとっては外側にあたる。
第2に、新たに知識を創出して所有し、それから特許使用料として地代を得る活動がありうる。知識の創出には労働力雇用や資材購入が必要だが、知識そのものは価値物ではない。したがって姿態変換の観点からは流通費用と同じく、【 G貨幣-W商品…(消滅)】となる。知識の保有については、地代をとるのは資本ではないということは、最初のものと同じ。
第3に、自身は他者から知識の所有権を買ったり、管理を請け負ったりして、それらを貸し出して利用料をとる形である。これはTeixeira and Rotta [2008]がRoyalty Pharmaの例を挙げている(p.15、訳文61頁。2012年の論文にはない)。日本では著作権管理の分野でJASRACの名をよく聞く。これらの事業は様々なものがあるだろうが、純粋に知的所有権の管理をするのであれば、資本となるものがありそうだ。というのは、おそらく非銀行金融機関に似ていて、まずは事業活動用の労働力や資材に自己資本を投下し、負債の側に知的所有権所有者から受託を受けて受託料の支払い義務を負い、資産の側にはそれを他者に利用させて利用料の受け取り権をもつ。利用料と受託料の差額が、自己資本に対する利潤になる。ただし、非銀行金融機関とは異なるのは、受信資本における姿態変換に相当するものがないことだ。しかし、知的所有権所有者、つまり地代所得の活動の中には、純粋に地代を得るだけではなく、利用者を求めて利用権を販売しようとする流通過程における活動も含まれる。この販売活動にかかわる業務を知的所有権管理会社が担っていると考えれば、サービス業といわれる分野の産業資本と同じになる。つまり【 G-W…業務-G’ 】である。利用者の有無にかかわらず、知的所有権所有者に受託料を払うのであれば、自己勘定売買でリスクをとる形になり商業資本と同じになる。
結論
産業資本の内部には、生産過程の他に、流通過程や信用業務の他に、新たな知識を発見する要素が含まれている。従来の分化発生論では、流通過程や信用業務から新たな種の資本として商業資本や銀行業資本への分化発生が論じられてきたが、現代の資本主義では新たな知識を発見する要素の分化発生も検討すべき時代になったといえる。この要素は姿態変換する資本とは言えない。土地と知識を合わせて本源的自然力とよぶと、本源的自然力所有者という別の階級となる。ただし、本源的自然力所有者の活動にも、本源的自然力の利用権の売買活動のような産業資本や商業資本が担いうる要素があるため、産業資本と本源的自然力所有者が一体となる部分もある。また、そもそも知識を創出して専有する活動は産業資本にもともとある。分化発生論で完全に分化すれば、産業資本と本源的自然力所有者階級との階級的分立関係が明確になるが、完全分化でなければ、さまざまな機能が同一種の経済主体の中に一体化している。この一体化の中にある区別は、原理論では概念として区分するとともに、会計ではM&A(原理的には資本移動)において、同一経済主体内の貸借対照表における「無形資産」として区分されることになる。
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