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注目

FRB(アメリカ連邦準備制度)の赤字(2025Q2まで)

以前「 FRB(アメリカ連邦準備制度)の赤字 」について 2025Q2 まで更新されたので、グラフを延長する。データ、出所などの説明は以前の記事を参照。 FRBの利息収入( 青い破線 )は2022からほぼ同水準で変動しているが、利息費用( 緑二重線 )が2023Q3から徐々に減少している。それ以外に債権(国債など)と債務(当座預金)の額を考慮する必要があるが、ここでは省略している。財務省への送金前の純所得( 赤い線 )の赤字はかなり縮小してきた。2025Q2も前期比べてわずかだか赤字は縮小し、銀行業資本として正常な状態に戻りつつあるといえる。 なお、用語の対応は、 総利息収入Total interest income、 総利息費用 Total interest expense 財務省への送金前の純所得 Reserve Bank and consolidated variable interest entities net loss before providing remittances to the Treasury 損失の場合は、 Reserve Bank and consolidated variable interest entity net loss before providing remittances to the Treasury   準備預金への利子率 Interest rate on reserve balances (IORB rate)

質疑応答「商品貨幣説と信用貨幣: 現代資本主義の原理論的基礎付け」

 


学会での報告に対する質疑応答。報告内容はこちら

コメンテータからの質問

①報告の背景としての問題意識は?

②現代のMEGA研究の成果の評価は? 報告に基づけでは現代をどう見ることになるのか。

コメンテータによる質問への回答

もともとの問題意識は、不換の銀行券は勝手に創出されるものではなく、商品価値を根拠としている、という話をしたかったのです。信用創造については「無からできる」と言われがちですが、今日説明したように、「無から有」ではなく、使用価値に制約された商品価値を、価値が制約されない貨幣へと引き出す仕組みこそが、すなわち銀行と銀行システムによる貨幣創造の核心です。その点をしたかったのです。

イネス・グレーバーの負債論について、私はそれほど詳しく読んでいるわけではありません。ただ、グレーバーは「貨幣の始まりはリディアの金銀合金貨から始まる」と述べています。それ以前については、「メソポタミアの楔形文字に記録された信用が貨幣の起源である」という議論があります。この点については、予稿の21ページに古代メソポタミアの貨幣論については簡単に記載しました。

ポランニー的な歴史観では、古代メソポタミアは再分配国家であり、市場経済ではなかったとされています。そのため、記録に残る貨幣とは、実際に現物が流通していたわけではなく、神殿などの記録であるだけだとされています。このような議論をグレーバーも展開しているように思います。しかし、実際には、貨幣は銀の形で流通していました。また、銀が足りないので大麦などが使われていました。

物品貨幣は、この時代にも現に流通していました。また、日本の古代には無文銀銭が存在しており、これは一定の重量になるように調整され、銀を流通していました。世界史的にはその後、銀貨を測る手間を省くため、ギリシャなどでコインの形にします。コインにすることで量る手間が省け、同じ量の銀の塊よりもコインにした方が価値が高くなる。流通にかかわる費用が安くなるので価値が高くなっていたようです。

したがって、「信用から貨幣が始まった」というよりも、「商品、特に銀のような現物が間接交換の手段として利用され、貨幣となった」と考えた方が、メソポタミアの貨幣や日本の古代の無文銀銭についても良いのではないでしょうか。

②の質問については、これは、3つの報告に共通する質問として、「計算単位(ユニット・オブ・アカウント)」をどうするのか、という問題だと思います。私の予稿集では19ページ(B.2))「W1WXK受取債権」というところの単位がどうなるのか、という問題です。これは私にとっても悩ましいところです。

Xが任意に計算単位を作るのか、あるいはXの中の特定の一つの商品を名目的な計算単位に設定するのか。この議論になります。今のところのところは私は、名目的な計算単位を後から付ける形にしかならないという意見になっています。

また、マルクスの原典研究の発展についてどうか、という質問です。最初に言っておくと、宇野学派の発想としては、まず原理論では論理的な再構成をし、その後に段階論を論じるということになります。そのため、マルクスの原文がどのようになっていたか、ということからすぐに理論的に反映されるわけではありません。

もう1つ、私自身がどうしても引っかかるのは、利子生み資本の概念です。資本というのは、バランスシートの右側(負債および純資産)の概念で、利子生み資本はおそらく左側(資産)の概念です。架空資本といわれるものは負債勘定になる一方で、擬制資本といわれる国債のようなものは資産勘定となり、ここでは錯綜があります。利子生み資本概念に対して宇野学派では批判的です。その結果、利子生み資本から金融化、という発想にも批判的になります(以前の記事参照)。そうした発想での最近のMEGA研究についても同様です。ただし、そのうえで、今後の研究もさらに学んでいきたいと考えています。

最後に、現代についてはどうなのか、という質問についてです。今回の報告の範囲では、伝統的な銀行システムとして、19世紀の物品貨幣のシステムと、それ以降の大恐慌や2つの世界大戦を経た後の伝統的な銀行システムの外側に、1980年代の新自由主義や規制緩和の時代に、いろんな貨幣システムができています。これらについて、商品価値の根拠として商品貨幣説と、銀行間組織という組織化の概念を使って、分析基準にならないだろうか、と考えています。それで、今回の報告では、仮想通貨や資金移動業などにも、拡張できるのではないか、ということです。

会場からの質問(1)

即時払い預金債務に対しては同時的な準備が必要ではないか?

価値形態論は交換手段形成論ではないのではないか?

会場からの質問(1)への回答

「預金債務に対して支払い準備が必要だ」という質問についてはまず。これを一番シンプルに考えて、預金準備率がなく、銀行からの支払い請求が別の銀行への振り替えだと想定すると、ある銀行への支払い請求は別の銀行の受取になります。つまり、ある銀行で支払い超過になるということは、別の銀行では受取超過になっている、ということです。 

したがって、組織化として相殺システムやインターバンクの貸借システムが発達していれば、事前の準備がなくても問題ないというのが、山口説やそれを発展させた組織化論の議論です。銀行券の発行や準備率がある場合には、中央銀行が必要になります。例えば、先ほど斉藤先生のお話にあったように、吉田暁の本の中でも「銀行券が発行されると金融が引き締まる」という話がありました。そうなると、金融調整として中央銀行が与信をする。その金融調整が必ずなされるという仕組みは、組織化論の観点からは「事前的対処」になります。ただし、基本的に支払い超過は受取超過と対応しているので、銀行間の仕組みが発展していれば事前の準備は不要となります。

ただし、その仕組みが必ずしも円滑ではない場合もあるため、ある程度の準備は必要になります。

この質問に関連する価値形態論と交換過程論ですが、宇野学派の方法では価値形態論とその次の交換過程論がセットになっています。価値形態での価値表現を行う動機は「交換を欲求しているから」という形で、現在の議論が進められていますので、価値形態論と交換過程論はセットで進むものなっています。ただし最近では宇野学派の中でも、交換過程を含むことへの批判など、多様な議論が起きていますが、今回は、とりあえずそこまでにしておきます。

預金設定で銀行は預金の数字を増やして貸出をするんですけども、その全額は準備しなくてよいということであってある程度は必要ですね。「1円でも引き出しに応じられなければ銀行は破産する」というご指摘ですが、1円程度であれば銀行の支店に置いておくことに問題はありません。もちろんある程度の準備は必要です。ただ、前提として支払いは銀行間の繰り替えで終わるんだとしたら、という話をしたので現金の引き出し請求の話はないとしたら、ということです。現金の引き出し請求が超過する場合には日銀が与信をして、組織化の中の事前的対処として対応する必要があります。それ以外で銀行貨幣の中の決済であれば、基本的には支払い超過は他行の受取超過なのでそれはネッティング、あるいはインターバンク貸借で対応できる。問題なのはグロスのリアルタイムのセトルメントの場合にはネッティングがないので、大量に準備をしておかなければなりません。ただ、それは中央銀行が大量に準備預金を供給するということで、技術的な問題になります。基本的には受取超過と支払い超過のバランスによって全額の準備は不要である。銀行観組織がしっかり機能してれば準備はなおさら少なくて済みますよっていう話をしました。

あらゆる取引が現金決済で行われていたら別の問題起きるんですけども、基本的には預金通貨で支払請求がされていて、それから吉田説によれば、現金というのは預金から引き出されて支出されてそれからまた結局、預金に戻っていくわけですから、現金は預金を移転させる手段なんだ、と考えた場合には現金の形での支払い請求がたくさんあったからといって何か問題になるわけではなくて現金はまた普段にこう戻っていきます。一時的に市場に滞留する部分というのがいわゆる成長通貨という形で、中央銀行が長期国債などを買うことによって長期間にわたって市場に滞留する銀行券を供給することになります。短期的には銀行券は出ていったり入っていったりを繰り返していきます。そのため、預金設定による貸出しの全額をあらかじめ準備する必要はないということです。(日銀による銀行券発行増などに対する金融調整は以前の記事参照)

会場からの質問(2)

現代の社会では預金通貨で買えるのは「商品」だけでなく「金融商品」も購入可能ですか?「岩田2022の方法」では購買できるのは「商品」のみと想定されているのでしょうか? この「商品」に「金融商品」を導入することは可能ですか。
銀行の預金債務の裏付けとして借り手の資産としての商品価値が提示されている。しかし預金債務の裏付けは、借り手が現在保有している商品㋔価値ではなく、借り手の獲得する将来キャッシュフローではないか。

会場からの質問(2)への回答

この2つの質問は基本的にセットになっています。預金通貨は銀行の債務であり、銀行の債務は銀行の債権によって裏付けられています。銀行の債権は借手の債務であり、借手は事業活動を通じて商品と商品を販売する能力を資産として持っている、ということです。そのため、預金通貨は不換であっても商品価値の根拠を持つ、となっています。

このときの商品は内在的な価値のある生産物という前提になっています。もちろん、商品には金融商品だけでなく、知的所有権や社員権、非金銭債権など、さまざまな商品はあるのですが、基本的には、生産されて、一定のコストを持つという意味での生産物を前提にしています。一定のコストがあるということは一定の内在的な価値を持つという考えが基礎になっています。この点は、先ほど斉藤先生がおっしゃった生産価格論の重視と同じ考え方です。

金融商品の議論は次の㋑の質問に関連します。金融市場にだけ閉じた世界では、すべてキャッシュフローのアウトとインが連鎖しているだけ、という見方になるかもしれません。しかし、最終的な借手という概念を考えると、最後に返済できるのは自分の商品を販売したことではじめて最終的なキャッシュフローは成立します。

商業資本の場合は、仕入れた在庫商品を販売することで、産業資本の場合には生産した商品を販売することで、労働者の場合には、労働力商品を販売することになります。有価証券は資産サイドにあり、それ自体は資本ではなく資産です。それは、他者からのキャッシュフローを受け取る権利です。

その他者は、最終的には自身の商品を販売することで貨幣を得ることができます。そのため、基本的には生産されたものを販売するという想定になっています。

かみ合わない繰り返しになるかもしれませんが、結局、最終的な借手が商品を売らない限りキャッシュフローになりません。そういう意味で、「商品に裏付けられている」ということになります。

バランスシートで書くと一番左の端にある借手のモノには、現在の会計基準ではバランスシートに載らないものも入っています。それらを固定的に「商品=現物の商品」と考えるのではなく、もっと抽象的な商品として、特に労働者に対する与信で、たとえば住宅ローンでお金が発行される場合、最も左側に位置するのは将来の労働力商品の販売となります。

これは現在の会計基準では、バランスシートに載りませんが、そういうものも「将来、商品を販売して貨幣になる」という意味で、商品価値に裏付けられていると言えます。












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